「田プラ」を立て直し、地方創生の旗手となった永井彰一
地元の造り酒屋「永井酒造」の4代目・永井彰一という男がいる。家業を嫌っていた彰一は、大学を卒業するやカナダに留学。勤め先も米国で見つけていた。25歳の時、渋々帰国。母の哀願にほだされた。嫌々ながら継いだ酒造会社ではあったが、任された以上は責任を持たねばと打ち込んだところ、考えもしなかった銘酒を生み出すことに成功し、傾いていた経営も持ち直した。帰国してからおよそ15年。彰一が40歳を超えた頃だった。彼の手腕に白羽の矢が立つ。赤字垂れ流しの第三セクター「田プラ」の立て直しを託されたのだった。
現場に立った彰一は余りの酷さに呆れる。社員たちは満足に挨拶さえもできない。掃除もなおざりで、けっしてきれいとはいえない。経営に目を移せば、さらにひどい状況だった。そもそも経営意識がないから目標もなかった。海に出てただ漂っている船だった。儲けるということはどういうことか。そのためには数字を理解しないといけない。この商品の原価はいくらだから、これくらいの価格で売れば利益が出る。これだけだと赤字になる。赤字になるとどうなる? 赤字を払うのは誰? 彰一は徹底して経営の基礎を従業員に教え込んだ。その一方で経営するという意識の改革を何度も何度も説いた。
サービスとはどういうことか。接客するとはどういうものなのか。それを目の当たりにさせ、実感させるために社員を「東京ディズニーランド」に連れて行った。わざとスープやジュースをこぼし、そんな場合にディズニーのスタッフがどう動くかを直に見せ、実感させた。3年後、漂流する船だった「田プラ」は目標を持つ自走できる船に変わっていった。彰一が社長に就任して来場客はおよそ3倍以上、売上は5倍以上になった。
彰一は一躍、地方創生の旗手と目されるようになった。水上温泉や伊香保温泉といった観光事業が振るわなくなっていた群馬県にとって「田プラ」は希望の光にもなった。その一方で、道の駅を成功させた彰一は、群馬県の政財界の人々にとっては、あの“鶴二さん”の息子と呼ばれる存在でもあった。
「アイデア村長」として名を馳せた彰一の父・鶴二
“鶴二さん”こと永井鶴二は彰一の父にあたる。鶴二は永井酒造の3代目ではあったが、その名を群馬県だけでなく、全国に知らしめている。1967年、当時地方自治体の首長としては最年少だった31歳の時に川場村村長になった。その後4期 16年に渡り川場村村長を務め「アイデア村長」として名を馳せた。
1977年には当時の国鉄から機関車「D51」の払い下げを受け、その機関車を活用したホテルを開業。東京・世田谷区と相互協定を結び、世田谷区民の農業体験、子供等の移動教室などを開催し、画期的と評された。世田谷区にあった、東京農業大学や東京工業大学などの教授らとも親しくなった鶴二は、彼らと農産品の流通、売り方、また川場村に人を呼び込むにはどうしたらいいのかといった議論を繰り返した。これが後々に「田プラ」につながり、飛ぶ鳥を落とす勢いの「川場田園プラザ」という道の駅へとつながって行く。鶴二がこうした積極策に打って出たのも、1971年に川場村が国から「過疎地域」に指定され、このままでは将来的に村が消滅してしまうという強烈な危機感をもったからだった。