いまから120年前のきょう、1898年2月23日、『居酒屋』『ナナ』などの小説で知られるフランスの作家エミール・ゾラ(1840~1902)が、セーヌ地方重罪院(パリ裁判庁舎)で禁固1年、罰金3000フランの有罪判決を受けた。
「ゾラ裁判」と呼ばれるこの裁判の発端は、ゾラがこの年1月13日、その4年前に判決が下りていたドレフュス事件について「共和国大統領フェリックス・フォール氏への手紙」(「私は告発する!」)と題する公開状を『オーロール』紙に掲載したことだった。そこで彼は、事件に関与した陸軍の将軍たちを名指しで非難したため、発表からまもなくして陸軍から名誉棄損罪で告訴されたのである。公開状で《法の裁きには、むしろ喜んで身を委ねる》(『ゾラ・セレクション 第10巻 時代を読む 1870-1900』小倉孝誠・菅野賢治編訳、藤原書店)とすでに覚悟を決めていたゾラは、2月7日より約2週間にわたり裁判にのぞんだ。
ドレフュス事件とは、ユダヤ系のアルフレッド・ドレフュス大尉が、ドイツのスパイを行なった罪を着せられ、終身流刑となった冤罪事件である。1896年には真犯人が現れたにもかかわらず、軍部はこれを隠匿。政府や司法もまた、ドレフュス事件は94年の判決で終わったものとする立場をとり、ゾラ裁判でも事件に触れられるのを徹底して避けた。しかし、ドレフュス再審を求めるゾラの主張は、結果的に反ドレフュス派をも巻きこみ、再び国を二分する論争を喚起することになる。
ゾラは2月23日に下った判決に対し、ただちに上訴して認められる。ただし、再審は形式的に書面審査のみで行なわれ、結局、第一審と同じ判決が7月18日に下された。ゾラはその日のうちにベルギー経由でイギリスに渡り、以後、翌99年6月5日に帰国するまで沈黙を貫く。彼がフランスに戻り、再び口を開いたのは、その2日前にドレフュスの1894年の判決が破棄されたタイミングであった。その後8月~9月に行なわれた軍法会議でドレフュスは再び有罪となるが、恩赦を経て1906年、ようやく無罪判決を得る。
ドレフュス事件では、軍部が新聞などを通じてフランス人の反ユダヤ感情を煽った。当初、事件に無関心だったゾラがドレフュス擁護の論陣を張ることになったのも、こうした動きに強い危機感を抱いたからだ。しかし、その彼もまた、裁判中には、法廷の戸口で市民から「イタ公(ゾラの父はイタリア人だった)をセーヌ河へ叩きこめ!」と罵声を浴びせかけられたという(ピエール・ミケル『ドレーフュス事件』渡辺一民訳、白水社 文庫クセジュ)。そんな19世紀末のフランスの状況は、日本を含め世界中で排外主義が激しさを増す現在とも重なる。ドレフュス事件はけっして過去のできごとではない。