日本は同調圧力が強い社会だと言われる。このあたりの分析や論考は鴻上尚史氏と佐藤直樹氏著『同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか』(講談社現代新書)では世間そのものが同調圧力として人々を抑圧する姿をコロナ禍における自粛という名の強制などを例に描いている。またコロナ前に出版された前川喜平氏、望月衣塑子氏、マーティン・ファクラー氏『同調圧力』(角川新書)では教育や言論の自由といった観点から日本社会での同調圧力について自らの経験を踏まえて論じている。
たしかに日本社会には多かれ少なかれ彼らが指摘するような、いわば無言の圧力とでもいったような雰囲気があることは、日々の生活の中でも感じられる。少しでも一般社会と異なる言動をすると、まずは周囲から「ちょっと変わった人」あるいは「あの人変人よね」と言われる。変わった人、変人といった表現には決してポジティブな意味はない。また出自や風貌などで少しでも日本スタンダードと異なる面を見せると、とたんに相手の警戒心が高まるのがわかる。
自分と違う相手に不安を感じる人々
私自身は父親の仕事の関係で米国に生まれ、幼少期に日本に戻った今風にいう帰国子女だ。今ではその数が大幅に増え、帰国子女で活躍する事例がたくさん出てきたために帰国子女は一定の市民権(一部の憧れも含め)を得ているが、私が家族とともに帰国した1960年代では全くの「異星人」扱いをされた記憶しかない。兄は「日本語をしゃべれない変なやつ」として学校ではいじめられたらしい。私は幼少期に帰国した分だけ日本語の習得は早く、クラスになじむことができたものの、極力自分が外国生まれであることを隠し通してきた。
自身の出自をさらけ出し、人と異なる意見を表明できるようになったのは、独立起業して業界の中である程度知名度があがったからにほかならない。日本人は自分たちと少しでも違う(と感じる)人たちがそばにいることに、程度こそ違え一定の不安と恐怖を感じる国民だと思うからだ。
しかしこれを少し違った角度から見ると、日本人は同調圧力に耐えて生きているのではなく、むしろ「同調すること」を好んでいる、つまり社会に「同期化すること」にこのうえのない安心感を抱く国民なのではないかと思われる。