きょう2月26日は、『ウルトラマン』など円谷プロダクションの特撮作品で重要な役割を担った脚本家の金城哲夫(1938~76)とデザイナーの成田亨(1929~2002)の命日である。

金城哲夫 ©共同通信社

 金城哲夫は東京生まれ。幼少期を沖縄ですごし、沖縄戦も経験した。玉川大学在学中に脚本家を志した彼は、恩師に紹介された特撮技術監督の円谷英二のもとでシナリオについて学ぶ。1960年代に入るとテレビドラマの脚本を書き始め、やがて円谷プロ製作の特撮ドラマ『ウルトラQ』(66年)に参加、以後、『ウルトラマン』(66~67年)、『ウルトラセブン』(67~68年)と続いたウルトラシリーズでメインライターを務めた。この間、円谷プロの企画文芸部長に就き、プロデューサー的役割も担うようになる。

 ウルトラシリーズには毎回、さまざまな怪獣が登場したが、その大半のデザインは金城哲夫と成田亨が相談して決めていたという(成田亨『特撮と怪獣 わが造形美術』フィルムアート社)。成田は青森県出身。武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)の彫刻科に在学中、『ゴジラ』(1954年)の特撮班にアルバイトとして参加したのが縁で、映画各社で美術制作に携わるようになる。円谷プロでは『ウルトラQ』に途中から参加、同作のガラモンやケムール人、『ウルトラマン』のバルタン星人やレッドキングなど数々の人気怪獣をデザインした。ウルトラマンのデザインも、成田が単純化を極めて生み出したものだ。

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2013年、成田亨の芸術家としての活動を紹介する展覧会が、ゆかりの地である青森市の青森県立美術館で開催された ©時事通信社

 成田は、怪獣は独創的なものでなければならないとの考えから、実在の動物を大きくしただけという類いのデザインは避けた。また、視聴者を不愉快にさせるような化け物にはしないよう心がけた。そこには、怪獣はあくまで自分たちと同じ生き物だという考えがあった。それは金城が怪獣を「仲間」ととらえていたのとも重なる。彼は、怪獣が暴れるのにはそれなりの理由があると考え、人間が一方的に怪獣を悪者にしてやっつけることを許さなかった(上原正三『金城哲夫 ウルトラマン島唄』筑摩書房)。

展覧会で展示された未発表の怪獣デザイン画の一部 ©時事通信社

 その後、成田は『ウルトラセブン』を途中降板して円谷プロを去り、金城もまた1969(昭和44)年に退社し、沖縄に戻ると、沖縄芝居の作者や監督を務めたほか、テレビ・ラジオでも司会者などとして活躍する。また75年から翌年にかけて開催された沖縄国際海洋博覧会では、閉会式など式典の演出を担当した。これらの仕事を通して沖縄と本土の架け橋となろうとした金城だが、人々の意識のギャップから、両者のはざまで悩むことも少なくなかったという。彼が不慮の事故で亡くなったのは海洋博閉幕の翌月、37歳のときだった。一方、成田は円谷プロを離れたのち、映画の特撮美術だけでなく百貨店のディスプレイのデザインなどを手がけている。美術家としても鬼などのモンスターをモチーフとしたモニュメントや絵画を多数残し、2002(平成14)年、72歳で死去した。