山田哲人に“打たせた”3ランホームラン
6月28日、対読売ジャイアンツ戦。3回表、1死一塁。山崎晃大朗が放ったレフト線へのヒットでその男は三塁に到達していました。
ショート中山礼都は二塁を回ったその男を三塁で刺そうと中継プレーに入るも、レフトの秋広優人からの送球を捕球した時、その男は既に三塁に到達していたのです。
その中継プレーを見た山崎晃大朗が一気に二塁を陥れて1死二、三塁を作ったというこのシーン。
ゲッツーの心配がない状況にして山田哲人を打席に立たせたからこそ出た3ランホームラン、といっても過言ではないと思います。
その男の名前は、並木秀尊。そう、ナミキ ヒデタカ。
【足が速い】
それは、一瞬にして学校でヒーローになれる特技でした。
足が速い=ヒーローだったあの時代
僕はありがたいことに子供の頃から足が速い方でした。中学校まで運動会ではずっとアンカーを任されていたし、マラソン大会では常に10位以内。2位になった事もある。高校3年の時には50メートル走で5秒90をマーク。生まれて初めて6秒を切れた時のあの嬉しさは今でも忘れられません。
だけど、小・中・高と僕は最後までヒーローにはなれなかった。
ワキ タカシ君。背が高くてサッカー部でもFWを任されていた彼は、異常に足が速かった。西宮市のリレー代表にも選ばれたワキ君は、Aチーム(1軍)のアンカーでした。僕も一応選ばれたんですが、僕はメンバー選考のタイム順でギリギリ生き残ったBチーム(2軍)の2番だった。運動会でも誰もがワキ君の走りに魅了されていた。
小・中の9年間で、1位でバトンをもらったのに彼に最後の直線で抜かれて2位になったこと3回。マラソン大会でも、最後の200メートルぐらいで抜かされたこと、2回(うち1回はもう一人にも抜かれて3位)。
「シマちゃん(僕)も速いけど、やっぱりワキ君はスゴいよね」
当時好きだった女の子の誕生日会に呼ばれウキウキだった僕。
彼女が天井を見ながら、いや……あれはワキ君を想像していたに違いないその表情で放ったこの一言を聞いて、告白もしていないのに失恋したような気持ちになった帰り道。
彼とは高校は別々になったんですが、もう高校ともなると世界が変わる。ワキ君のような韋駄天がそこら中にいるし、足が速いより顔が良い方がモテるし、ヒーローになれるし、僕の学校にいたそんなヒーローは足はそんなに速くなかったけど手は早かった。
“ちょんぼ”が多かったあの時代の僕
甲子園を目指していた高校球児だった僕の武器は、足でした。
50メートル走のタイムだけ見れば、僕が一番速かった。でも、なぜかベースランニングになると僕より速い奴が何人もいた。僕より盗塁できる奴もいた。そして、そんなに打てなかった。一応、高校通算打率は3割は超えてたんですけど。打つ奴は4割近く打っていた。
何より“ちょんぼ”が多かった。
高校3年の時の関関戦(関西学院と関大一高が全てのスポーツ競技で競い合う年1回の対戦)に1番センターで出場した僕。両校の全校生が応援する中、試合開始の初球。
足の速さを活かして、意表を突く1塁側へのセーフティーバント。
決まったあの瞬間。一番レギュラーに近かったあの瞬間。チームも先制し、自分自身もイケイケの状態でした。
しかし、1点リードで迎えた6回、2死二塁のピンチで相手打者が放ったのはセンターへのライナー性の打球。
捕れる。思いきって前にダイビングして出したグラブのその遥か手前に落ちた打球は、その勢いのまま外野フェンスまでコロコロ。
逆転のランニングホームラン。次の回からベンチに下げられました。
大事なところでエラーしたり、ボール球を振ってしまったり。ミスを取り返そうと、柄にもなくホームランを狙って大振りして三振。そして、交代。
レギュラーになれるチャンスは何回かいただいたのに、そのチャンスをものにできなかった。メンバー入りはさせてもらったけど、結局最後までレギュラーにはなれなかった。チームも決勝戦までいったけど、あと一歩甲子園には届かなかった。全てにおいてあと一歩が足りなかった、僕の野球人生。