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両親から継いだ実家を25年放置…松本明子(57)が明かす「実家じまい」失敗の顛末「1000万円以上の維持費を払った」

松本明子さんインタビュー #1

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松本 私、父が37歳、母が36歳のときに生まれた子どもなんですよ。10歳上の兄は既に手がかからなくなっていたこともあって、ひとりっ子のように育てられまして。良い意味で言えば守られていた、悪く言えば親に監視されながら幼少期を過ごしました。

 例えば、学校が休みの日も友だちと遊ばせてもらえず、親と過ごさなければいけない、みたいな。親の隙を見て近所の友だちの家に遊びに行くんですけど、夕方になると必ず母親が迎えに来ていました。

――ご両親から大事に育てられていたのですね。

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松本 物心ついた頃には、親の敷いたレールの上を走っていた感じでしたね。だから親元を離れて、自分の力で頑張ってみたいという気持ちがありました。

15歳まで高松の実家で過ごしたという(写真=松本明子さん提供)

両親を東京に呼び寄せ、実家は空き家に

――松本さんが上京してから、高松の実家が空き家になるまでの経緯を教えていただけますか。

松本 17歳のときに歌手デビューしたものの、10年くらいは鳴かず飛ばずで。27歳くらいからやっと『電波少年シリーズ』や『DAISUKI!』(ともに日本テレビ)、『TVチャンピオン』(テレビ東京)などのバラエティ番組に出るようになったんです。

 その時期に、「テレビ出演も増えたから、これでやっと親孝行ができる」と思って、高松にいる両親を東京に呼び寄せて、3人で東京のアパートに住み始めました。高松の実家が誰も住まない空き家になったのは、その頃からですね。

ご両親との親子スリーショット(写真=松本明子さん提供)

――「親孝行」にもいろいろな形があると思いますが、なぜ東京でご両親と一緒に住むことを選んだのでしょう。

松本 まず、60代半ばの両親が2人だけで暮らすのは、心配だったんです。

 あと、当時は私の全盛期で、レギュラー番組を持ったりドラマに出たり、ありがたいことに忙しい日々を送っていて。でも、洗濯物が溜まったり、食事をコンビニ弁当で済ましたりしていて、生活面が乱れていました。だから生活のサポートをしてもらうために、両親を呼んだというのも正直あります。

 両親は「仕方ないな」と言いながら、また娘と過ごせることを喜んでいましたね。「やっと呼ばれたか」みたいな(笑)。

――お兄さまは実家を出ていたのですか?

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