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松本 最初は両親が高松に帰ったときに父が庭の草木を剪定したり、雑草を抜いたりしていたんです。でもだんだんと帰る頻度が減ってしまって。父が亡くなってからは、私が実家に戻ったときに草木を手入れしていたのですが、父のようにはできませんでした。

 早めに休みの予定を組めればいいんですけど、こういう仕事をしているものだから、そういうわけにもいかなくて。仕事で関西に行ったときとか、年に2回くらい高松に行ければいいほうだったので、次第に雑草が伸び放題になってしまった。

 そしたらある日、高松市役所から「庭の草木を手入れしてください。ご近所からクレームが入っていますし、衛生的にも防犯的にも良くないので」と連絡が来てしまって。とはいえ、年に何度も実家に行けないので、地域のシルバー人材センターに有料で手入れをしてもらうことになったんです。

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「実家を頼む」と父に言われて正式に継いだものの…

――お父さまが亡くなられたのは、いつ頃だったのですか。

松本 私が37歳のとき、2003年の8月末ですね。最後は癌を患って、東京の病院で息を引き取りました。相続については、父の生前から家族で話し合っていて、「高松の家は明子に継いでほしい」と言われていたんです。私が家を継ぐかわりに、兄は実家の価値の半分にあたる金額を受け取っていました。

 父には、亡くなる直前にも「明子、実家を頼む」と伝えられました。父が他界したあと、実家は母が相続して母名義の家になるのですが、兄にも了承を取ったうえで、実家や持ち物を私に残すと定めた公正証書遺言を公証役場で作成して、正式に私が高松の実家を継ぐことになったのです。

――「実家を頼む」という言葉が、お父さまの遺言になったのですね。

松本 あの言葉は重かったですね。きっと父は、やっとの思いで建てたこだわりの家が処分されるのは、寂しかったのだと思います。

父親の思い入れのある家だからこそ、簡単に処分できなかったと松本さん(写真=松本明子さん)

 ただ私は、いつまで管理するべきなのか、私の子どもたちにまで受け継いでほしいのか、そういう具体的なところまでは聞いていなくて。父が他界したあとは、ただ漠然と管理していましたね。

――遺産分割をする際に、実家の管理について話さなかったのですか?