中原名人への挑戦は10代から思い描いていた目標
――十七世名人が棋士を志していた少年時代にお持ちだった名人に対するイメージ、そして棋士になって実際に名人が手に届くお立場になった時の名人に対するイメージや思いをそれぞれお聞かせください。
谷川 私が奨励会に入った昭和48年(1973年)は、ちょうど大山名人から中原名人へと移った次の年になります。なので、棋士を志していた10代の私にとっての名人像は、中原名人そのものでした。その後、棋士になって八段まで昇段を重ねた時、当時の中原先生は名人だけでなく他のタイトルも数多く持っておられ“中原時代”を築いておられました。ですから、中原名人に挑戦するということを大きな目標としていました。
――十七世名人の資格保持者だった時と、実際に襲位されたあとで、心境の変化や襲位を実感するようなことはありましたでしょうか?
谷川 襲位が決定して初めての公務が第80期名人戦第5局の立ち会いでした。対局は大山康晴十五世名人の出身地である岡山県倉敷市で行われましたが、対局に先立ち、両対局者と大山名人の記念館に訪れました。そこで大山十五世名人の推戴状が飾られており、それを見た時にやはり身の引き締まる思いをしました。私が十七世名人の資格を得たのが35歳の時でしたが、それから25年経って、少し力が落ちてきてしまっている時に十七世名人を名乗ることへのプレッシャーを感じましたね。また、対局時はタブレットに持ち時間が表示され、対局者の名前も表示されます。そこに『谷川浩司十七世名人』と書いてありますので、残りの持ち時間をちらっと見た時に肩書が目に入ると、その肩書に相応しい将棋を指さなければならないということを改めて意識しますね。
中原先生と立場が逆になるとは…
――初めて名人を獲得された時、十七世名人は「名人位を1年間預からせていただきます」と謙虚なお言葉を残されました。その預かっていた名人位の初防衛に臨まれた42期名人戦を迎えられた時の心境はいかがでしたか?
谷川 名人を獲得してからの1年間は、やっぱり他のタイトルに挑戦し、そして獲得してから防衛戦を迎えたかった気持ちがありました。それは叶いませんでしたが、挑戦者の森安秀光先生は同じ神戸で藤内一門の先輩ということで大きなプレッシャーを感じることなく戦えたと思います。