放送時は正直、主役なのに名脇役に思えていた。弾けることなく、鬱々と暗黒に落ちていく姿は、ものすごく地味だった。本音を言うシーンが回を追うごとに減り、セリフも減り、難しく暗い顔ばかりが増えていく。性格が悪くなるたび、衣装の色も暗くなっていった。それと反比例するように、彼以外の武将が個性を出し、輝いていく。そして共感や同情を得て散っていく。佐藤浩市演じる上総広常の猫背手習いに泣き、中川大志演じる畠山重忠の品格に萌え、横田栄司演じる和田義盛の純粋さに泣き、山本耕史演じる三浦義村の戦略家ぶりに震え……。
それに比べ、義時の印象といえば、前半は八重さんのストーカー、後半は「頼朝」大泉洋からバトンを受けた、嫌われ残酷キャラである。
小栗旬も最終盤を前にした取材会で、「気持ち悪い義時から怖い義時へ徐々にシフトしていきますが、そんな義時を演じられて良かったです」と振り返っている、こんなヘンな感想が出る大河主役があろうか。
たまに「今日義時出たっけ」と思い出せないときすらあった。ところが結局全話が終わったあと、頭に浮かぶのは、小栗が演じた、義時の苦悩の顔なのだ。「ストレスの擬人化」のようなこの役は、スター性とともに「疲れ」を出せる小栗旬だからこそ、と思うのだ。
代わりがいない「罪の声」の引きの演技
また、小栗旬の面白いところは、居心地がよさそうでも悪そうでも、コミュニティに溶け込むところだろう。「鎌倉殿の13人」もそうだったが、群像劇で「ごくせん」(2002年)、「花より男子」(2005年)、「電車男」(2005年)、「花ざかりの君たちへ~イケメン♂パラダイス~」(2007年)、「クローズZERO」(2007年)、「銀魂」(2017年)など、マンパワーが密集したような群像劇で、主役だろうがキーマンだろうが、どんな役でもひょっこり彼がいることでまとまりが出るのである。
「どうする家康」の脚本家、古沢良太が手掛けた2007年の映画「キサラギ」は、主役でありながら彼の「場を回す」複雑な存在感が存分に出ている名作だ。マイナーアイドル如月ミキが自殺し、彼女のファンが一周忌に集まり、その死の謎を解くという密室ミステリー。彼は集まった人たちの話をまとめる「家元」。彼の自信なげな話術に不思議と物語が引っ張られていく。