私には組織ごとにスケジュールやアポイント調整をしてくれるスタッフがいるが、忙しい時にも誰でも躊躇無く休暇を取ってもらっている。レストランやデリバリーでも、注文の間違いは当たり前。最初はそこで怒ったりしていたが、そんなことは何の解決にもならないどころか、怒り方を間違えたら訴訟になりかねない。そもそも怒っても変わらないし、相手の機嫌を損ねて敵を作るだけだし、何より時間が失われてしまうことに気づいた。チキンライスがダックライスになっても、かつ丼が親子丼になっても、来たものをサンキューといって食べた方が時間効率としていいという結論になったのだ。
どうしても一言伝えたかったら、帰りに「本当はチキンライスを頼んだんだけどダックライスもおいしかった。気にしないで。でも次はチキンライス食べたいな」と相手の機嫌を損ねない程度に意向を伝えている。スケジュール調整なども、怒って嫌われるより、自分でやった方がいい。
「リスペクト」と「寛容さ」を持つ
一方で、海外の生活は相手も完璧を求めてこないため、全てはおあいこさま。慣れれば楽だ。私も時間を間違えたり、メールを読み違えたりなどしょっちゅうあるが、責められることはまずない。「そんなもんですよ」と言って皆笑ってくれる。
今後、海外に限ったことではなく、日本国内もこうなっていくと私は予測している。日本という場所が再び輝きや豊かさを取り戻すには、「リスペクト」と「寛容さ」が必要だと痛感する。それは、「違い」に対するリスペクトと寛容さだ。
日本が再び輝くためには社会に多様性を増やしながら、それを活かしていくことが不可欠だと思う。アホをこの世から絶滅させるために、寛容になろう。人は1人ひとり違って当たり前なのだ。
禍福は糾える縄の如し
「禍福は糾(あざな)える縄の如し」とは、『史記』南越伝(なんえつでん)にある言葉で「この世の幸不幸は交互に絡み合い、裏表をなしている」という意味だ。