日本人はいつから偏差値を気にするようになったのか? その歴史背景を、大阪大学人間科学研究科教授の村上靖彦氏の新刊『客観性の落とし穴』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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偏差値ができた背景
日本の若者の多くは受験勉強を強いられ、偏差値を気にしているだろう。日本では長年にわたり偏差値によって学校は一直線にランク付けされ、受験生たちは模擬試験や本試験の結果に一喜一憂している。誰もが自由に学ぶ権利をもつはずなのに、学校にランク付けがあり、入学試験で排除することがあるということは奇妙でもある。
また、さまざまな研究分野をもつ大学が、なぜ「私立文系」「国立理系」といった雑なくくりのなかで序列がつけられるのだろうか。私たちはそれぞれ興味を持つことが異なり、そもそも興味や得意は、中学や高校で行われる教科からはみ出ることが多いだろう。
さらに大学に行ってからの多様な学びと研究は、高校までの画一的な教科とはまったく質が異なる。学生自身一人ひとりの願いは異なり、大学の学部の学びの多様さがあるなかで、偏差値という単純な数字を頼りにして序列化することで何が判断されてきたのだろうか。しかし、これほど当たり前のものとして受け止められているのは、数字の呪縛がそれだけ強いということでもある。
1957年に東京都港区の中学校教員だった桑田昭三が、学力偏差値を考案した。当初は教員の勘に頼っていた進路指導に、信頼できる指標を導入することが目的だったのだが、次第に偏差値は独り歩きし、偏差値そのものが勉強の目的となっていく。例えば英語の学習は英語が使えるようになることではなく、英語のテストの偏差値が上がることが目的となっている。偏差値そのものは、テストの点数が正規分布すると仮定される母集団のなかで、どの位置にいるのかを示す統計的な指標にすぎない。
本章では「偏差値で人の能力が測れるのか?」と批判したいだけではなく、そもそも「人間を数値化して比較することで、私たちは一体何をしていることになるのだろうか?」と問いを立てたい。それは数値化・序列化がもたらすものを考えていくためである。