文春オンライン

「7年間ずっと満席のまま閉店」伝説のパクチー専門店主が、千葉の田舎に出した「パクチー銀行」の途方もない夢

source : 提携メディア

note

準備ゼロで臨んだ面接試験で、これは落ちたな、でも別に入社したいわけじゃないからいいか……と思っていたら、なぜかとんとん拍子に面接を突破し、内定を得た。この面接の過程で、「志望してない」という自分を面白がる富士通に興味が湧き、1998年に入社。研修後の配属先は、人事だった。

「やると決めたら、とことんやる」性格の佐谷さんは、「どうせなら社長になろう」と決意。部内で「このプロジェクト担当したい人?」と聞かれれば誰よりも早く立候補し、前のめりで仕事に取り組んだ。その姿勢が評価され、2年目から関西地区の採用責任者に抜擢された。

富士通を3年で辞めた理由

ところが3年目の夏、退職届を出した。

ADVERTISEMENT

「採用シーズンのピークが過ぎると本当にヒマで、会社にいなくてもなにも言われないから、毎日公園で昼寝してました。2シーズン責任者をさせてもらったからこそ、そのギャップに虚しくなっちゃって」

退職届を出す前日、高校時代の友人と富士山に登っていた。互いに仕事の悩みを相談しながら登山していたのだが、登頂して下界を眺めていたら自分の悩みなどちっぽけなものだと思い直し、富士山頂で友人に告げた。

「おれ、会社辞めるわ。普段、俺は下から富士山を見てるだろう。でも、富士山に登ったら景色が違うじゃん。下から見てるだけじゃダメなんだよ。違う世界に立たなきゃ」

翌日、課長に同じ話をしたら、「……意味わかんないんだけど。次に何をするか決まってからにすれば?」と言われた。それでも辞意は揺るがなかった。旅と同じで、その先に何があるか分からないから突き進む。

辞めた後になにをするのか特にあてはなかったので、京大で仲良くしていた先輩で、ちょうど佐谷さんが退職した2000年、リサイクルワンという会社を立ち上げていた木南陽介さんに連絡を取った(2014年にレノバに社名変更、2017年に上場)。創業間もない同社の「お手伝い」として加わった佐谷さんは、数カ月働いては長旅に出るという自由度の高い生活に変わった。