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「日の丸半導体を復活させる」「世界に10年遅れたのは私たちの世代の責任だ」半導体のキーマンが直接対決

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日本は「鳥籠の鳥」だった

 ——日本の半導体産業が世界シェア10%未満にまで落ち込んだ最大の理由はどこにあると思いますか。「世界から10年遅れている」とも言われていますが。

 東 よく言われるのは、今から三十数年前に半導体をめぐって日米貿易摩擦が勃発した時に、政府が手厚いサポートをしてくれなかったという見方ですね。結果的に日米半導体協定を結び、外国製半導体のシェア拡大や日本製半導体の価格固定などを取り決め、これが弱体化の引き金になったと。

 ただ、むしろ私は、国内市場ばかりに目を向け、調達も国内で賄おうとする、日本中心の自前主義に陥ってしまったことに一番大きな原因があったと思うんです。「鳥籠の鳥」が生きる力を失うのと同じで、いつしか日本の半導体産業も、世界最高レベルの技術を吸収する態勢ではなくなってしまった。

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東哲郎氏 ©文藝春秋

 黒田 今後の展開を考えていくうえでも、全部自分たちだけでやるのは無理な話で、海外にいかにパートナーを求めるかが重要ですよね。モリス・チャンが創業した台湾のTSMCは、かつてパイナップル畑の小さな小屋に過ぎなかったのに、いつの間にか世界トップに登り詰めた。それは、やはり人材の集め方からビジネス展開の仕方に至るまで、グローバルにやってきたからです。

シリコンバレー視察の衝撃

 東 この考えは、私が40年にわたり勤めた東京エレクトロンにいた時代に培ったものです。1987年、アメリカのシリコンバレーに東芝の川西剛元副社長たちと視察に行って、「シリコングラフィックス」という会社を訪ねたことがありました。当時、同社は画像エンジンの開発に力を入れていて、映画「ジュラシック・パーク」のCG映像もそこから生まれていたんです。

 日本の半導体は、東芝やNECはじめメモリーの分野で破竹の勢いで伸びていましたが、インテルやIBMなど、アメリカの企業は早くもバーチャルリアリティの方向に動いていた。私は非常に驚いて、「これでは世界に取り残される」と危機感を覚えました。それ以来、頭の中には常に「グローバリゼーション」の言葉があった。だから、東京エレクトロンはじめ装置や材料メーカーはグーッと海外に舵を切ったんです。