巨星でなくても、その一瞬の輝きに多くの人が魅せられ、夢を見た。元阪神タイガースの横田慎太郎とは、そんなプレーヤーだった。2019年に現役引退を余儀なくされた原因にもなった脳腫瘍が昨年、再々発。今春からは治療を終えて療養に入っていた。

 静かに息を引き取ったのは7月18日。かつての同僚たちは突然の訃報に打ちひしがれた。私個人も横田さんとは現役時代の「いち記者」と「いち選手」の関係ではなくなり、大切な友人の一人でもあった。そんな思いはスポーツニッポンの原稿にすべて書き込んだつもりなので、本稿はグラウンドで汗を流し、大舞台でともに戦った仲間たちの思いを記したい。

横田慎太郎 ©文藝春秋

北條史也「一番、一緒におったと思うので」

 訃報の翌日、まだ彼がこの世からいなくなった実感のないまま私は朝から鳴尾浜球場に向かった。どうしても話を聞いておかないといけない選手たちがいたからだ。練習を終えて寮へと引き上げてきた北條史也は取材の間、ずっとサングラスをかけたままだった。溢れ出てくるものを隠すためだったのかは分からない。ただ、言葉をひとつずつ絞り出し、その声は震えていた。

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「ヨコでもダメやったって思ったら……。僕が行った時は多分、(余命)1週間、2週間って、その時は聞いてへんかったですけど、そっからだいぶ頑張ったんやなと思います」。療養に入った5月に一度、面会に訪れていた。すでに会話もできない状態だったがその後、関係者から体調が安定したという話も聞いていた。

 横田さんが高卒1年目だった2014年。選手寮に入ってきた横田さんの「教育係」を務めた。「いっぱい思い出がある。夜間練習とか。一番、一緒におったと思うので」。1歳上の先輩として寮のルールを教えるだけでなく、室内練習場での夜の打ち込みなど、一軍を目指す同志、ライバルとして2人でバットを振り込んだ時間も多かった。だから、間近で横田さんの能力の高さを最も感じていたのも北條だったはずで「他の選手が持っていないようなポテンシャルを持って、それでああいう性格で。みんなから愛された選手やったんで」と思い返した。

 横田さんが志半ばで現役を引退した時から「ヨコの分も自分が頑張る」と胸に刻んできた。その思いはより一層強くなる。優しくて頼れる先輩は、「感謝です」と最後の言葉を贈った。

髙山俊「一緒にやった時のように活躍できるように」

 2016年に就任した金本知憲監督の掲げたスローガン「超変革」の象徴が、髙山俊、横田慎太郎の1、2番コンビ。髙山は、同じ左打ちの外野手でも全くタイプの異なる年下の背番号24とプレーした大事な時間を噛みしめるように話した。

「寮生活も、球場の行き来も一緒でしたし、たくさん思い出のある子です。いつでも全力だし、ああいう彼の姿から学ぶことも多かったですし」

 横田さんと開幕スタメンに名を連ねた2016年に新人王を獲ったのをピークに、不振の期間も長く、今はキャリアの分岐点にも立っている髙山は、覚悟を強くした。「結果は今出てないですけど、まず健康体でやれてることを幸せに感じて。その中で(横田さんと)一緒にやった時のように活躍できるように」。“髙山さん”と今も後ろから呼びかけてきそうな横田さんに背中を押されたようだった。