2022年2月24日、突如として始まったロシアのウクライナ侵攻。戦争で変えられてしまった日常をウクライナ人は、どのように過ごしているのだろうか。戦時下で生きる彼らの声を日本人記者が現地で徹底取材した『戦時下のウクライナを歩く』より一部抜粋。ここではウクライナ南部にあるへルソン州で監禁されたジャーナリストの体験をお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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送られてきた監禁施設の写真
「私が監禁された施設の部屋です」
キーウに残った私のスマホに、バトゥーリン記者がSNSを通じて監禁されていた施設の部屋の写真を送ってきた。私の滞在中、ウクライナ軍は監禁施設のあったヘルソン市一帯をロシア軍から奪還していた。そのおかげで、バトゥーリン記者は、自分が監禁されたヘルソン市内の“施設”を再訪でき、その写真も撮ることに成功したのだ。
写真撮影をはじめとする取材の仕事をしていた彼に連絡を取り、電話で話を聞いた。実際にロシア軍により拉致・監禁を受けたバトゥーリン記者。どのように拉致され、また監禁施設にはどれくらい拘束されていたのだろうか。
「私が住んでいたウクライナ南部のヘルソン州は、2022年2月24日の侵攻直後から、ロシア軍の占領が始まりました。3月12日、ヘルソン州カホフカ市にある自宅に私の友人から電話があり、近所のバス停に呼び出されました。ただ、行ってみるとなぜか友人はおらず、軍用車両が止まっていて。そこから緑色の軍服の男たちが出てきて、頭にいきなり頭巾を被せられました。さらに後ろ手に両手を縛られもしました。押し倒されて、車両に乗せられ、どこかへ連行されました。
尋問を受け兵隊に殴られ、ろっ骨を折られた
そこでは『尋問』を受けました。兵隊に殴られて肋骨が折れ、息も苦しくなりました。さらに、すぐ州都のヘルソン市へ移送されると、そこではしばらく監禁されたのです。それはヘルソン市内にいくつかある『拷問施設』の一つでした。解放されたのは3月20日になってからで、9日間ほど拘束されました」
電話で話を聞きながら、私は、尋問や監禁についてはその様子を図に書いてもらったりしながら説明を受けたほうが分かりやすいだろう、と思った。そこで、バトゥーリン記者に「あらためてインタビューしたい」とお願いし、後日、ヘルソンから逃げて引っ越した先の彼の住まいを訪ねた。