「私は、市庁舎の玄関前でロシア軍の軍用車に乗せられました。一緒にいたのは数人のウクライナ人です。そのうち若い青年が殴られていました。彼は『やめてください』と懇願していましたが、軍人は『おまえは反対集会に参加していただろう』と言って暴行をやめませんでした」
悲鳴が響く「拷問施設」
暴行の鉾先はバトゥーリン記者にも向かった。
「ロシア軍人は、銃の床尾で私の胸や脇腹、足を殴りました。拳でも殴ってきました。胸が痛くて息はしづらくなり、話すのも難しくなりました。その時、胸以上に痛かったのは手首で、縄ですごくきつく縛られていたのです」
バトゥーリン記者の胸の痛みはずっと続いた。この時、肋骨が4本折れていたのである。彼はロシア軍の暴力を示す証拠として、手足に受けた傷や、手首を縛られた痕の写真も提供してくれた。
怪我をしたバトゥーリン記者は市庁舎での尋問の後、軍用車に乗せられて州都ヘルソン市内の施設へ移された。病院に立ち寄るなど、バトゥーリン記者の怪我を治すような配慮はなかった。
「私は独房に入れられました。ただ、そこで私は暴力を受けることはありませんでした」
「殺されるかもしれない……それは『心理的な拷問』だった」
それは3階建ての建物で、1階と2階にウクライナ人が収容された。ほかの部屋からは、暴力を受けるウクライナ人の悲鳴が聞こえ、ロシア兵が、収容されたウクライナ人を脅かしつける声も聞こえた。
「いつ自分もひどい目にあい、殺されるか分からない。そう思うと、夜も眠れませんでした。それは『心理的な拷問』でした」
バトゥーリン記者がそこにいたのは8日間。何もされずに放置された。「そのため、かえって恐怖が増しました」という。そして突然、解放された。なんの説明もなく解放されたのは、なぜだったのだろうか。
「ロシア軍は、法的プロセスも人権問題も無視して虐待をしているので、説明もできないというのが理由でしょう。彼らの狙いは、監禁や殺人によって市民を脅し、自分たちに服従させることなのです」
バトゥーリン記者は解放された後、自家用車で家族とともにロシア軍の占領地を走り抜けた。ロシア軍の検問所近くで銃撃されそうになりながらも生き延びて、避難先である西部リビウ市にたどり着いたという。彼は今もジャーナリストとして戦争犯罪を取材し続け、ネット上の記事で告発している。「ウクライナ南部で最も多い被害は拉致です。ヘルソン州だけで160人が行方不明になっています」と話す。