1980~90年代に“レディース”という特異な世界を取り上げ、人気を博した伝説的な雑誌『ティーンズロード』。初代編集長の比嘉健二氏は、世間から素行不良の集団と煙たがられていた少女たちと真剣に向き合い、必死にその声を掬い上げていたという。彼は編集長時代にどんな少女たちと出会い、どのような誌面を作っていたのだろうか?
ここでは、『ティーンズロード』元編集長の比嘉氏が、“日本一のレディース”と呼ばれていた「三河遠州女番連合(スケ連)」の初代会長・のぶことの出会いを振り返る。
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“日本一のレディース”初代会長・のぶことの衝撃的な出会い
1990年の夏の終わりごろだろうか、伝説のレディース専門誌『ティーンズロード』編集部に日本一のレディース「三河遠州女番連合(通称スケ連)」から強烈なクレームの電話があった。
「『ティーンズロード』に出ているレディースはチャラチャラしていて、なんも迫力がない、あんな偽物ばかり載せてないで、うちら『スケ連』を取材してくれ! 他とは格が違うもんで、だから取材いつ来る!?」
活字にすると平坦だが、電話口の言葉はほぼ喧嘩腰だった。
電話の主は「スケ連」の初代会長・のぶこと名乗った。それまでもこうしたハッタリをかましてきたレディースは何チームかはあったが、100人以上の構成メンバーがいると豪語してきたのは「スケ連」が初めてだった。
「今、少年院にパクられてるのが20人ぐらいはいるけど、それでも100人ぐらいはいるもんで、『ティーンズロード』に出てるのは10人ぐらいだろ、そんなのレディースって言えんな!」
1990年頃は既に暴走族の最盛期は過ぎていて、男の暴走族でも20〜30人いれば多い方だった。ましてやレディースは、平均すると10人未満のチームがほとんどだった。
のぶこの言葉を全て鵜呑みにしたわけではないが、どこか自信満々な口ぶりはもしかしたら本当かもと思わせるには十分だった。でも100人はありえないと思った。おそらくその半分の50人ぐらいが現実的だろう。それでも大した構成人数だが。