1980~90年代に“レディース”という特異な世界を取り上げ、人気を博した伝説的な雑誌『ティーンズロード』。初代編集長の比嘉健二氏は、世間から素行不良の集団と煙たがられていた少女たちと真剣に向き合い、必死にその声を掬い上げていたという。彼は編集長時代にどんな少女たちと出会い、どのような誌面を作っていたのだろうか?
ここでは、比嘉氏が『ティーンズロード』編集長時代の体験をまとめたノンフィクション『特攻服少女と1825日』(小学館)より一部を抜粋。“ある事件”をきっかけに、世間から「悪書」と叩かれるようになった『ティーンズロード』。逆風にさらされるなか、それでも編集長の比嘉氏がレディースを取材し続けたワケとは――。(全2回の2回目/1回目から続く)
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世間から厳しく叩かれる
「現実にこういう事件が起きたので、雑誌を出版されている道義的な責任を、編集長としてはどう考えているか教えてください」
電話の主は誰もが知っている全国紙の青森版の社会部の記者だった。言葉の節々から「責任はおたくにあるんじゃないの?」と問い詰めようとする意図を感じた。おそらくこちらの「反省と謝罪」の言葉を引き出したかったのだろう。
1991年夏。『ティーンズロード』は絶頂期を迎えていた。5号目で「紫優嬢」が読者に大反響を呼び、廃刊寸前だったところから奇跡の大ブレイクをして以降、「スケ連」効果もあって、号を重ねるたびに部数も増え、約13万部にまで伸ばしていた。同時に世間の認知度もかなり上がってきていた。この手のジャンルとしては後発ではあったものの、誌面が派手に見えたため、レディースだけでなくヤンキーや暴走族の“専門誌”の代表格のような位置付けとして捉えられていた。
マスコミにも多く取り上げられ、良くも悪くも目立ち始めていた。そんな時期に青森で1つの事件が起き、地元では連日大手メディアが大きく報道していた。
素行不良を雑誌の影響だと決めつける記者
その事件をかいつまんで説明すると、青森の三沢地方で、あるレディースチームが発足したが、参加しなかった地元の少女数人に先輩たちがリンチを加え、それが傷害事件になった。
彼女たちが動機として語ったのが「ある専門誌に出たいがために特攻服を揃えることが目標だった」という内容だった。
「ある専門誌」とあり、ティーンズロードという固有名詞こそ出ていなかったものの、しっかり本誌の表紙がずらりと掲載された記事もあった。そして青森県少年課のコメントとしてこんな談話が載せられていた。
「暴力的な見出しが並び、感受性の強い少女にとってはかなり影響があるのでは」と。