1980~90年代に“レディース”という特異な世界を取り上げ、人気を博した伝説的な雑誌『ティーンズロード』。初代編集長の比嘉健二氏は、世間から素行不良の集団と煙たがられていた少女たちと真剣に向き合い、必死にその声を掬い上げていたという。彼は編集長時代にどんな少女たちと出会い、どのような誌面を作っていたのだろうか?

 ここでは、比嘉氏が『ティーンズロード』編集長時代の体験をまとめたノンフィクション『特攻服少女と1825日』(小学館)より一部を抜粋。当時、“日本一のレディース”と呼ばれていた「三河遠州女番連合(女連)」の初代会長・のぶことのエピソードを紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)

日本一のレディース「三河遠州女番連合(通称スケ連)」のメンバー(写真=比嘉健二氏提供)

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「三河遠州女番連合」の初代会長に就任

 1981年夏、のぶこは地元豊橋の不良少女仲間のCとM子の3人で女だけの暴走族を立ち上げようと、豊橋中を駆けずり回っていた。言い出したのはM子だった。ただこの時代、愛知県近辺の東海地方は男の暴走族の全盛期で、女だけでチームを結成するのはなかなか至難のことだったが、3人は本気だった。

 豊橋中の不良少女を腕力で押さえ込み、次々に傘下に置いた。最初のチーム名は「東三河女番連合」。名付け親はのぶこではなく、Cだった。会長はM子でCが特攻隊長、のぶこは副会長だった。50人以上のメンバーが集まり華々しく結成式を挙げる予定だったが、いち早く県警が動き結成式は幻に終わる。3人は補導された。M子は補導されたことで気持ちが萎えて、チームから手を引いていったが、のぶことCは違った。

「三河遠州女番連合」と名前を変えたスケ連はのぶこが初代会長になり、さらに過激な行動に出る。近隣の男の暴走族とも抗争を繰り返し、「スケ連」は一躍豊橋近辺では一目置かれる存在になった。

少年院で過ごしている間に勢力はさらに拡大

 しかし、悲劇は突然訪れた。盟友Cが単車の事故で帰らぬ人となってしまった。のぶこはしばらくは現実を受け止められなかったが、出した結論は「Cのためにもスケ連をもっと大きくしてやる」だった。

 Cが亡くなった後、のぶこは脇目も振らずに暴れまくった。豊橋周辺の不良少女は徹底したのぶこの暴力に屈してしまったが、ついに警察が動き、のぶこは少年院送りとなる。院内でも暴れまくり、収容期間は約1年半もの長期にわたった。