その期間、のぶこが唯一気がかりだったのは「スケ連」は存続しているかどうかということだったが、3代目はさらに勢力を豊川、蒲郡、岡崎と拡大し、少年院を出た後ののぶこを感激させた。愛知県内に他のレディースが立ち上がるとすぐさま殴り込みに行き、相手をボコボコにし、その場で特攻服を燃やして土下座させた。その過激な喧嘩路線はすでに近県にまで知れ渡っていた。また、この頃に「会費は1000円、無断欠席はリンチ、先輩のタバコは5秒以内につける、返事は一度だけ」等の「スケ連17条」という血の掟も作られる。
難局を乗り越えた後にやってきた大きな試練
相談役に収まったのぶこの野心はさらに大きくなり、豊橋にアパートを借り、ヤクザばりに事務所を構えた。さすがにそこまで組織だって行動すると“本職”が黙っていなかった。3人のヤクザが日本刀を持って事務所に襲撃してきたのだ。
「てめえらヤクザをなめてんのか!」
この襲撃にも肝が座ったのぶこは怯まず翌日事務所に乗り込み、そこの兄貴分とサシで話し合いトラブルの予先を納めた。
難局は乗り越えたが、大きな試練がまたやってきた。「スケ連」の大半のメンバーが補導、逮捕されてしまう。のぶこが現役で活躍していた時期、鑑別所と少年院の部屋ごとに「スケ連」のメンバーの誰かがいる時すらあったという。一時は豊橋本部に2人だけの時期もあったが、そのたびにOBが力を合わせて組織を立て直し、取材時の1990年当時でも100人近いメンバーを誇っていたから、まさに日本一のレディースと言ってもどこからも非難されることはないだろう。
10年近く前の出来事をのぶこは昨日のことのように話してくれた。設立の経緯は意外なことだったが、亡くなったCとの思い出を語った時は心なしか目が充血していた。確かに日本全国で10年にもわたってチームを維持しているレディースは「スケ連」以外には存在しないだろう。これだけの長い歴史と共に生きてきた当事者の肉声が聞けたことは、この後の記事に大いに役立つことになる。
そして、この日改めて気がついたのは、のぶこの驚くべき記憶力と、話術の巧みさだった。長時間話を聞いていても飽きないのはこの話術によるものが大きい。「スケ連」という組織を長年にわたり統制するには当然、後輩たちを惹きつけ、鼓舞するような話術も必要だったのだろう。自分も栃内良ものぶこの話しぶりにすっかり魅了されていた。