もちろん、新聞社の中で広告部門と編集部門は分かれていますし、官公庁から仕事をもらうことを一概に悪いとは言えません。ただ、読者の視点で考えてみれば、県が不祥事を起こした際は厳しい態度を示さないと、癒着を疑われるのは当然だと思います。
勇斗くんの両親は息子を失い、学校に裏切られました。そして行政にも見捨てられ、ジャーナリズムの力を必要としていました。それなのに、長崎新聞をはじめとする地元メディアは、その期待に応えようとしませんでした。ただでさえ苦しい被害者をさらに苦しめ、社会的に孤立させる構造に、報道機関が加担していると言えます。
こうした構図を描くために、私は地元メディアの態度や、長崎県から長崎新聞への金の流れを著書「いじめの聖域」の中で紹介しました。これが、長崎新聞の逆鱗に触れたというわけです。
共同通信からは更に、(1)本の重版(2)今回の経緯の公表―を禁止するとの命令も下されました。これに従わなかった場合、懲戒に処する可能性があるとも文書で通知されました。明らかな脅迫であり、憲法で保障された表現や出版の自由を侵害しています。
私の状況に対して、自分ごとのように怒ってくれたのは勇斗くんの遺族でした。母親のさおりさんはこう言いました。
「真実を書いた人が処分されるのであれば、他の記者にも悪影響が出ると思います。例えば他のいじめ自殺がどこかで発生した場合、その地域の記者が会社からの報復を恐れ、遺族に協力することをためらうかもしれません。それが本当に恐ろしいです」
私が共同通信を訴えることに決めた理由
これを聞いて、私は声を上げなければならないと決意しました。共同通信の幹部の多くは元記者です。長崎新聞と遺族のどちらを優先するべきなのか、本当は良く分かっているはずなのに、彼らは金主に忖度する道を選びました。遺族はまたしても裏切られたのです。この連鎖は、ここで食い止めなければなりません。
報道機関への信頼は揺らぎ、新聞の発行部数は激減しています。読者は忖度や自主規制を望んでいません。求められているのは権力からの独立性です。言論の自由を守り、報道機関の在り方を世に問うことが、訴訟を起こした目的です。
私のように誰かにとって不都合な事実を書き、会社から記者が迫害された例は、公になっていないだけで多く存在するのではないか、と想像しています。原因はハッキリしませんが、私の周囲でも、良心的な記者が毎年のように離職していきます。
たとえ私が裁判で勝ったとしても、共同通信の組織的な体質は変わらないでしょう。それでも、ジャーナリストとしての筋を通す姿勢を見せることで、息苦しさを感じている全国の記者たちが、自分の書くべきものを書けるように勇気づけたいです。それが結果的には、様々な境遇の弱者や被害者の救済にも繋がると信じています。
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