しかし上述したことは、やっぱり、あまりにも、希望的観測にすぎる。この戦争が経済へのカンフル剤であるなら、母なるロシアの大地に埋蔵されている天然ガス資源について、どう説明するのか。この戦争がロシア国民の愛国心を高めるものなら、なぜワグネルは武装蜂起したのか。いずれの疑問にも屁理屈を上塗りできるから、そうしてもいいけれど、そうしたところで、そもそもわたしの妄想にすぎないのだから、このあたりにしておく。
このあいだ、京都のバーで、あるゲーム雑誌の編集者と、話をした。東大卒で、わたしとおなじくらい頭がいい。上述したような、わたしの希望的観測を聞いたあと、藤田さん、やっぱりそれはないよと彼は言って、つぎのように付け加えた。
「むしろ、問題は、現実で戦争をはじめるのが、ビデオゲームのなかで戦争をはじめるのとおなじくらい、簡単になってしまったことだ。プーチンの気持ちになってごらんよ」
それでわたしは、プーチンさんの気持ちになって、考えてみた。わたしが彼で、クレムリンの王座に座っていたら、たぶん、こんなことを考えただろう。
「ああ、おれもとうとう、七十のじじいになってしまった。もうすぐ死ぬなんて、考えられない。おれが、ほかでもない、このおれが。いらいらする。おれらしくないな。どうしよう」
周囲には、自分の指示に従って、粛々と働いてくれる人々がいる。わたしは思いつく。
「そうだ。戦争をしよう」
「戦争をして、歴史に名を残そう。どうせ死ぬなら、華々しく死のう。失われたロシアを回復した、英雄として。ネオナチの脅威を地球上から取り除いた、偉人として。まあ、ぶっちゃけ、理由はなんでもいいんだけど、面白そうだから、戦争をしよう。母なるロシアの大地のために。ウラー!」
戦争開始のボタンを押すか、押さないか
わたしは民主主義が好きではないが、もしも彼の国の政治形態が民主主義であったら、この飛躍を止めてくれるひとがいただろう。民主主義の欠点と長所は、悪行と善行を民衆に分散させ、それらの行為の力を弱めるところだ。
だから、あなたにも、彼の気持ちが理解できる。なぜなら、わたしたちは、自由だから。自分の責任のもとで、正しいと信じたことを行えるから。
そして、あの国において、自由な人間はただひとり、プーチンさんしかいなかった。
なんにせよ、これはわたしの妄想である。あの国に生まれ、生きているひとたちが、なにを感じているのかは、東西の壁に阻まれて、わからない。
わからないけれど、わたしは、かつてのさまざまな戦争を、ビデオゲームでやり直した。盧溝橋事件。未回収のイタリア。フランツ・フェルディナンドがサラエボで暗殺されたためにドイツ帝国が背負うことになった、358億1400万ライヒスマルクの賠償金。
ロシアにとってのクリミア半島がいったい何なのか、わたしは知らないけれど、当事者にしてみれば、どうしても、そこにこだわらなければならない理由が、あるのだろう。
理由があるなら、あとは戦争開始のボタンを押すか、押さないかだ。
ビデオゲーム的に考えれば、どちらを選ぶべきかは、明白である。
押したほうが、面白い。