8月4日、来日中の国連人権理事会の「ビジネスと人権」作業部会のメンバーが日本記者クラブで会見を開いた。
ジャニーズ事務所創業者・ジャニー喜多川氏の性加害問題について、元ジュニアや事務所関係者らに聞き取りをしたと明かした上で、「謝罪であれ金銭的な補償であれ、被害者の実効的救済を確保する必要性」があるという声明を公表した。
文春オンラインでは7月に、ジャーナリストの安藤海南男氏が行った“ジャニー喜多川氏の性被害”を26年前に告白した元アイドル・豊川誕氏のインタビューを掲載。今回改めて同記事を再公開する(初出・2023年7月1日 年齢、肩書等は当時のまま)
◆◆◆
「……1回、1回だけありました」
ためらいがちの告白だった。
6月のある休日。その男性とは、駅前のとあるファミリーレストランで待ち合わせた。家族連れで賑わう店内で50年以上前の“経験”を明かした。
「ジャニーさんのマンションで1回、お尻にされました」
「ことしで65歳になる」というその男性の名は、豊川誕。1975年、ジャニーズ事務所から「汚れなき悪戯」でレコードデビューを果たした「ジャニーズアイドル」の一人だ。
事務所の黎明期に活躍した4人組グループ「フォーリーブス」の弟分のような存在として人気を博した豊川もまた、ジャニー喜多川氏による「性被害」の経験者だったという。
「『合宿所』と呼ばれていたジャニーさんのマンションで1回、お尻にされました。事務所への入所が決まってからすぐのことだったと思います」
豊川によると、ジャニー氏の自宅でもあった「合宿所」は、東京・港区飯倉片町にあった。当時から「ジュニア」と呼ばれるデビュー前の少年たちが出入りし、ジャニー氏と雑魚寝する光景も目にしていた。
ジャニー氏の「推し」ポジションを郷から引き受ける
入所早々にジャニー氏のお眼鏡にかなった豊川には、ほかのジュニアたちにはない“特権”が与えられた。
「ジャニーさんから『ユー、この部屋使いなよ』と言って個室をあてがわれました。事務所を退所してしまった郷ひろみが使っていた部屋です」
ジャニー氏は、「合宿所」につながる電話番号を「5103(ゴー・ヒロミ)」と芸名をもじったものにするほど、郷に目をかけていたという。
しかし、ジャニー氏が心血を注いで育てた郷は1975年、設立間もないバーニングプロダクションに移籍。郷の「部屋」を引き継ぐことで、豊川は郷からジャニー氏の「推し」としてのポジションも引き受ける格好となった。
「郷が使っていた個室には、デビューを約束された別の少年がいましたが、僕がやってきてその子はすぐにいなくなりました」
豊川によると、ジャニー氏が行為に及んだのは、入所から数日経ったある日のこと。
豊川がひとり、「推し部屋」のベッドで寝ていた時に、ジャニー氏が布団に潜り込んできたという。