「合宿所に入ってから3日も経ってなかったと思います。はっきりした記憶はないですが、お尻に突っ込まれてものすごく痛かったことは覚えている。あんまり痛いし、やっぱり気持ち悪いじゃないですか。だから、その後、2回目にされそうになった時は、はっきりと『嫌だ』と拒否しました。そうしたら諦めたようで、強引にしようとするようなこともなかったですね」
退所後、芸能界でキャリアを積むことは叶わず
豊川は1974年11月にジャニーズ入りし、半年足らずのうちにレコードデビューを果たしている。
高野山真言宗の僧侶を父に持ち、信心深い一面があったというメリー喜多川氏から、東京・赤坂の豊川稲荷東京別院の「豊川」、ジャニー氏の頭文字「J」を組み合わせた「豊川誕」という芸名を授かった点などからも事務所側から寄せられていた期待の大きさが窺える。
しかし、兵庫県姫路市内の児童養護施設で育ち、「正確な生まれ年も両親の顔も知らない」という複雑な出自を前面に打ち出した事務所の売り出し方への反発もあり、1977年にはジャニーズ事務所を退所。その後、俳優への転身を図った時期もあったが、大成することはなく、芸能界で確固たるキャリアを積むことは叶わなかった。
流転の芸能人生は、2012年に肝臓がんで急逝したフォーリーブスの北公次(享年63歳)がたどった足跡と重なる。
北公次が豊川に向けた敵意の意味
「北公次とは、合宿所で何度か会いました。キッチンに壁面収容式のベッドがあって、彼はきまってそこで寝ていました」
ともにジャニー氏の寵愛を受けた2人だったが、会話らしい会話はなかった。ただ、事務所に所属するタレントが集まったコンサートで一緒になった時の出来事は鮮明に覚えているという。
「中野サンプラザで行われたコンサートで、『ちょっと来い』ってトイレに呼び出されたことがあった。フォーリーブスの中で一番激しい男でしたから。僕がジャニーさんのお気に入りだってことも知ってるから、あいつ生意気だってことになったんだと思うんですよね」
豊川に向けた敵意の意味は何だったのか。