元銀行家で民間から“改革”のために初代宮内庁長官に就任した田島道治氏。敗戦後の1948年から1953年まで昭和天皇に仕えた。手帳や日記帳、「マル秘」と書かれたノートなどには、昭和天皇の発言や二人のやり取りが詳細かつ膨大に記されていた。この夏、貴重な史料が全7巻の『昭和天皇拝謁記』(岩波書店)として完結。編集委員をつとめた名古屋大学大学院人文学研究科准教授の河西秀哉氏が、読みどころを深掘りする。(全2回の2回目/前編から続く)
◆ ◆ ◆
多くの人々に対する昭和天皇の批判
昭和天皇が戦争責任を痛感し、退位をも含めて考えていたことが田島道治宮内府・宮内庁長官が残した「拝謁記」からはわかる。では、戦争責任は自分一人にあると天皇は考えていたのだろうか。
そうではない。「拝謁記」には多くの人々に対する昭和天皇の批判が展開されている。田島と密室での会話だけに、その語り口はかなり正直でもある。
特に、陸軍に対しては厳しい。1949年9月7日、「自決者は大体戦争犯罪人〔に〕なるのがいやで自決した」と天皇は田島に述べた。それは、本庄繁元関東軍司令官や杉山元元陸軍大臣など、陸軍軍人を想定した会話であった。天皇は自身を「科学的に物を考へる」タイプと考えており、陸軍軍人、特に皇道派と呼ばれた人々はそうではないと考えていたようで、彼らへの評価は低かった。それは、天皇が「日本でもアメリカでも軍人は同じで下剋上、セクシヨナリズム、つくづくそう思ふ」と考えていたからであった。
このように軍を「下剋(克)上」と天皇が評する会話は、「拝謁記」のなかに散見される。天皇にとっては、軍は大元帥である自らの命令を聞かず、独自で勝手に動く存在と見ていたのである。そして、1950年11月7日、次のような話が天皇から田島になされた。
〈青年将校は私をかつぐけれど私の真意を少しも尊重しない。むしろありもせぬ事をいつて彼是極端な説をなすものだ。マージヤンなど私はしないのにそれをやるなどゝいつた。auction bridge〔トランプのゲーム〕は私はやるけれどもマージヤンはしない。私の真意のやうな軍人の精神ならいゝが、真崎流の青年将校のやうな軍人の精神は困る〉