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 これは、警察予備隊の幹部に旧軍人がすえられるのではないかという報道に対し、真崎甚三郎の影響を受けたような者は困る、と天皇が述べている場面である。真崎は陸軍皇道派の中心的な存在であり、2.26事件では無罪となったものの皇道派青年将校の主張に沿った形で事態の収束を図ろうとしていた人物である。ここで麻雀の話が出てくるのは、そうした皇道派の青年将校たちが昭和天皇は夜な夜な麻雀をしているような遊んでいる人物であり、それを糺す必要がある、弟の秩父宮を即位させるべきと主張していたことが念頭にある。

昭和天皇が考える戦争への分かれ道

 天皇にとって、彼らは自分の真意などまったく理解しようとしない存在であった。トランプでも麻雀でも同じではないかと後世の私たちは考えてしまう部分もあるが、ここに天皇の性格がにじみ出ているように思われる。昭和天皇は正確性を欠いた噂話が展開されることを嫌っていた。それを率先して行う皇道派の軍人が、天皇にとっては最も嫌うべき存在であった。だからこそ、自分を理解せず勝手な噂をするような軍人たちに厳しく対応してこなかったことこそ、敗戦の原因と考えていたようで、1952年5月30日には次のような話を田島にしている。

〈どうも段々考へれば下剋上を早く根絶しなかつたからだ。田中内閣の時に張作霖爆死を厳罰にすればよかつたのだ。〉

 1928年に中国奉天近郊で起こった張作霖爆殺事件をめぐって、天皇は犯人の厳罰処分を求めていた。しかし田中義一内閣は陸軍や閣内の反対にあったことで方針を転換、曖昧な形での解決を図ろうとした。最終的には天皇は田中に叱責を突きつけるものの、内閣の方針については裁可する。天皇はここが戦争への分かれ道となったと見ていたのだろう。

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公開された田島道治氏の「拝謁記」 ©時事

 戦争責任は陸軍だけにとどまらない。そうした陸軍に政治家や国民も迎合したと天皇は見ており、国民に対しても批判的な意識を有していた。

 それだけではない。アメリカに対しても批判的な眼を向けていたことが「拝謁記」に記されている。1950年12月1日、天皇は田島に次のような話をしている。