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「国立劇場の稽古を抜け出し、気付いたら屋上で『楯の会』80人のパレードを…」三島由紀夫“未完の遺作”に寄り添った担当者が初証言

「国立劇場の稽古を抜け出し、気付いたら屋上で『楯の会』80人のパレードを…」三島由紀夫“未完の遺作”に寄り添った担当者が初証言

2023/08/27
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元国立劇場理事・日本芸術文化振興会顧問の織田紘二氏による「初公開 三島由紀夫『未完の遺作』」(「文藝春秋」2023年9月号)の一部を転載します。(取材・構成 樋渡優子)

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 今日、皆さんにお目にかけるのは、三島先生が最晩年に手掛けた『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』の脚本です。歌舞伎は1969(昭44)年11月、国立劇場で上演されましたが、(人形浄瑠璃〔にんぎょうじょうるり〕)文楽版の企画も進行していました。こちらは文楽版の脚本(上の巻)に先生が訂正の朱(あか)を入れたものです。1970(昭45)年11月23日、先生は担当だった私にこれを届けて翌々日、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で亡くなりました。中・下の巻は完成しませんでした。

国立劇場で大道具の打ち合わせをする三島(左)と助手の織田氏(写真右端)

 先生の死後、奥様の(平岡)瑤子(ようこ)夫人からこの脚本を譲り受けて50年余り経ちますが、今回初めて公にします。三島由紀夫の絶筆は、小説『天人五衰(てんにんごすい)』の原稿末尾に記した「『豊饒(ほうじょう)の海』完。昭和45年11月25日」とされていますが、小説本体は8月に完成しており(後述)、従って、文楽版『椿説弓張月』は三島由紀夫の知られざる「未完の遺作」であり、この脚本は三島が最後まで作品に手を入れていた自筆の跡を伝える歴史的・文学史的資料だと思います。

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「織田君か、よろしくね」

 織田氏は1945年、北海道生まれ。國學院大學を卒業後、国立劇場芸能部制作室に勤務。43年間、歌舞伎、新派、中世芸能、民俗芸能等の制作に携わる。20代半ばの時、三島由紀夫最晩年の作『椿説弓張月』の助手として、公私にわたり多くの時間を共にした。家族の信任も厚く、三島由紀夫著『芝居日記』(中央公論社)の校訂の他、1995年の瑤子夫人逝去の折は、出版社、新聞社等の三島担当を代表して葬儀委員を務めたという。現在も歌舞伎、伝統芸能の振興に尽力、今年8月の歌舞伎座公演『新門辰五郎(しんもんたつごろう)』の演出を担当している。

織田紘二氏 ©文藝春秋

『椿説弓張月』の助手として、私が先生と過ごしたのは1969年4月から1970年11月までの足掛け2年です。先生は44、5歳、私は24、5歳の頃でした。初対面は国立劇場大劇場の監事(かんじ)室、客席後方にある部屋に入ると、「君が織田君か、よろしくね」と声を掛けられました。この秋、三島さんが何か(脚本を)書くらしいとの噂は耳にしていたので、「先生、構想はお決まりですか」「『椿説弓張月』だよ」とそれが最初の会話です。