理由が判明したのは、半年後の11月3日。『椿説弓張月』の初日を2日後に控えた舞台稽古の真最中、先生が「後はよろしく」と退席したのです。後で知ったのですが、午後3時から先生が隊長を務める「楯の会」結成1周年記念パレードを屋上でやっていたと。屋上へは3階から大人が1人通れる位の狭い階段を上がります。楯の会の隊員80余名と来賓が50人も上がって、しかも行進したのですから、上演中だった下の小劇場では、照明器具を吊るす細長いバトンが揺れて、ライトの当たりが狂って大変だったそうです。
その日の先生は、監事室を着替えに使っていました。楯の会の用がある時は、ポロシャツとズボンから楯の会の制服に着替えて出て行く。用が済むとまた監事室でポロシャツに着替えて、私や演出協力の山田庄一さんのいる客席に戻って来るという具合。あの日、先生は大劇場では『弓張月』の舞台稽古、屋上では楯の会のパレード両方の演出をしていたのですね(笑)。
しかし、目の前の舞台稽古で必死な私達はTVや新聞の報道を見るまで、そんな大ごとが行なわれているとは気づきませんでした。先生は時間と人をきっちり使い分ける方でしたから、劇場の制作スタッフである私達にパレードについて知らせる気は全くなかったと思います。
「居合抜きの撮影するので部屋を貸してほしい」
楯の会のメンバーは先生を訪ねて、よく劇場に来ていました。歳が近い私は言葉を交わしたり、大食堂で一緒に食事したことも何度かあります。かつ丼やカレーといった普通の食事ですが、なにせ人数が多いでしょう? 先生も活動を続けるのは費用が掛かるだろうなと思ったのを覚えています。
初日当日かその翌日、「ニューヨークタイムズマガジン」の三島特集の取材で、「居合抜きの写真を撮影するので部屋を貸してほしい」と言われ、養成研修室にご案内しました。白の上衣に白い袴で、刀の刃を煌(きら)めかせながらの所作はなかなか美しいものでした。ところが、先生が立ち上がって刀を振り翳(かざ)した途端、ガリガリと天井を削る音がして、建材がパラパラ落ちてきました。あれには慌てました(笑)。先生は「なんだ、ここは低いな」と呟いていましたが。後に養成研修室が改装されるまで、この時傷つけた跡が天井に長い間、残っていました。屋上はパレード以降、作業員以外、立入禁止になりました。
(文中一部敬称略)
※本記事に掲載している写真は、記載のあるもの以外はすべて織田紘二氏所有のものです
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元国立劇場理事の織田紘二氏による「初公開 三島由紀夫『未完の遺作』」の全文は、月刊「文藝春秋」2023年9月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。「電子版」では、誌面に載せきれなかった貴重な写真、資料も多数掲載している。