エーザイが開発したアルツハイマー病の疾患修飾薬「レカネマブ」。米国に続き、日本でも8月21日、厚生労働省の専門家部会が国内での製造販売承認を了承した。今後正式に承認され、日本では11月末までに保険適用され使えるようになる。また、欧州・中国では今年度中に、そして2024年には他の国々でも承認されていくという。
この「レカネマブ」はどのようにして生まれたのか。ノンフィクション作家の下山進氏がその経緯に迫った論考「アルツハイマー征服が現実に」を一部転載します(文藝春秋2023年8月号より)。
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保険適用され使えるように
エーザイが開発したアルツハイマー病の疾患修飾薬「レカネマブ」が米国のFDA(食品医薬品局)によって完全承認されたのに続き、8月21日、日本でも厚生労働省の専門家部会が国内での製造販売承認を了承した。
今後正式に承認され、日本では11月末までに保険適用され使えるようになる。欧州・中国では今年度中に、そして2024年には他の国々でも承認されていくことになる。
疾患修飾薬というのは、病気の進行に直接働きかけるという意味だ。アルツハイマー病の薬はこれまで症状を一定期間やわらげる対症療法薬しかなかった。
ドイツの医学者アロイス・アルツハイマーがこの病気を発見してから117年、この快挙をなしとげたのは、日本の製薬会社エーザイだった。
エーザイは、世界ランキングで言えば、1位のファイザーの10分の1以下の売上しかない。その小さな日本の製薬会社が、なぜ、ファイザーなど欧米のビッグファーマですら、「リスクが大きすぎる」と次々に撤退した抗アルツハイマー病薬で大きなブレークスルーをなしとげたのか?
2002年から20年以上にわたって、アルツハイマー病の研究について取材をし『アルツハイマー征服』(文庫版8月24日発売)で、「レカネマブ」の開発までの人類117年のアルツハイマー病との闘いの歴史をまとめた筆者が、この薬の意味とともに、その理由を考察するというのがこの原稿のテーマである。
当初から研究開発を重視
内藤晴夫は、エーザイの社長になった最初の正月(1989年)に、全社員にむかってこんなことを言っている。
「エーザイは世界の20社入りを希求する。その原点は自社の研究開発努力にあることは論をまたない」
しかし、この当時、この社長の言葉を本気にした社員はほとんどいなかっただろう。当時のエーザイの売上は1864億円しかなく、「ジェネリックに毛のはえたような薬を営業の力で押し込んでいた会社」(当時を知るエーザイ社員)でしかなかったからだ。
内藤晴夫は創業者の孫だ。
ノースウエスタン大学ケロッグ経営大学院でMBAを取得し帰国後、1982年に筑波に新しくできたエーザイ筑波研究所の研究第一部の部長となった。つまり、最初の出発点が創薬の開発部門のマネージメントだったのである。
内藤は、研究第一部の部長になると、創薬の部門を1室から6室にわけ互いに競わせた。
内藤晴夫が研究開発を見ていた80年代、各室の探索研究のチームは、早朝から深夜まで土日もなく働いていた。朝7時30分にはみな出勤して研究を始める。夜9時になると内藤が各室をまわった。つまり、ここまではみな帰らない。月の残業時間が100時間を超えるのはざらだった。
こうしたなかで、高卒でエーザイに入社した杉本八郎のチームが化合したのが開発番号「BNAG」、のちのアリセプトである。
アリセプトは、8カ月から1年半、アルツハイマー病の症状をやわらげる対症療法薬だ。
この「アリセプト」は神経細胞死自体を止めることはできない。残った神経細胞のつながりがよくなる、というもので、やがて神経細胞自体が死んでいくので、症状は進行する。
しかし、アメリカで1996年11月にまず承認されることになる「アリセプト」は、アルツハイマー病における初めての薬だった。
だから極東のちっぽけな製薬会社に、欧米のビッグファーマと呼ばれる巨大製薬会社が、販売権をもとめて門前市をなしたのである。
エーザイが海外に出ていったのは、1981年。当初のアメリカでの陣容はたった3人である。
そうした中でも、内藤は、「アリセプト」のアメリカでの治験をエーザイ独自でやるという当時としては、非常に思い切った判断をしている。