1953年、歌舞伎座で上演された『地獄変(じごくへん)』に始まる三島歌舞伎は、『椿説弓張月』で6作目、前作『むすめごのみ帯取池(おびとりのいけ)』以来、11年ぶりとなる作品でした。『弓張月』の作者は『南総里見八犬伝』で知られる江戸後期の戯作(げさく)者・曲亭馬琴(きょくていばきん)。保元の乱(1156)で父・源為義とともに崇徳(すとく)上皇側で戦い、敗れた源為朝(みなもとのためとも)が琉球へ渡り、のちにその子が琉球王になる物語です。
今年10月、閉場する国立劇場ですが、開場は57年前の1966年です。文藝春秋とはずっとご近所さんですね。
開場の翌年、大学を卒業した私は芸能部制作室に入りました。制作室とは舞台を作る現場ですが、当時の国立劇場の職員は上から下まで各所からの寄せ集めでした。制作・演出部門には文化庁(文化財保護委員会)、松竹、東宝、歌舞伎座、前進座、マスコミ・放送業界の出身者に、舞台監督や現場監督は俳優座を初めとする、いわゆる新劇系の人が多く、東京宝塚劇場の人、日劇ミュージックホールや赤坂にあったレビューを見せるキャバレーミカドにいた人等、年齢も経歴もまちまちのプロ集団です。学生上がりは私と同期の女性だけで、私の上は親父と同い年の人でしたから、年間10カ月もの歌舞伎公演の助手を務めるのは私一人(笑)。三島先生の助手に付いたのもこういう事情からでした。
制作部門に加え、事務職部門にも文化庁から来た役人を初め、実にいろんな人が集まっていましたが、皆、初めて国立の劇場が出来た喜びと活気に満ち溢れていました。
「屋上が見たい」と言われて……
映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』(2020)を観ましたが、いいドキュメンタリーでしたね。あの日(1969年5月13日)は『弓張月』の第1回スタッフ会議の翌日、東大の学生達が迎えに来て、劇場から出掛けたんですよ。「生きていたらまた逢おう」と先生が言うので、「何と大袈裟な」と笑って見送った。討論会とはいえ血気盛んな学生1000人を1人で迎え撃ち、辱(はずかし)めを受けた場合は、自刃する覚悟で短刀を忍ばせて行ったとは、知る由もありませんでした。
先生は国立劇場の非常勤理事でしたから、『弓張月』の仕事以外でも週に1度は役員会に来ていました。同じく5月、役員会の後、「屋上が見たい」と突然言われて、営繕(えいぜん)技官に鍵を開けてもらい、3人で屋上に上がりました。国会議事堂が近くに見え、皇居を眼下にする特別な眺めにすっかり私が目を奪われている間、先生は歩幅を使って、屋上の広さや方向を調べていました。かなりの時間を使って……。しかし、何をしているのかは全く分かりませんでした。