いまから50年前のきょう、1968年3月16日、ベトナム戦争のさなかにあった当時の南ベトナムのクァンガイ省ソンミ村ミライ地区で、米陸軍バーガー機動部隊のウィリアム・カリー中尉(当時24歳)率いる小隊が、無抵抗の村民500人以上を虐殺した。ソンミ事件と呼ばれるこのできごとは当初、軍内の秘密とされたものの、翌69年3月、ベトナム帰還兵の一人が何人かの政治家に手紙を送って調査を要請したことからあかるみとなり、同年11月17日付の『ニューヨーク・タイムズ』が詳細を報じた。その後、カリー中尉は逮捕され、1971年に軍法会議で終身重労働刑の宣告を受けるが、当時の米大統領ニクソンの命令で即時釈放される。カリーは軍法会議で「上官の命令に従ったまで」と繰り返し証言するも、有罪とされたのは彼一人だけだった。
米国は1960年代前半より、南ベトナムのサイゴン政権を支援する形でベトナム戦争への介入を深めていった。65年には北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始するとともに、米国とサイゴン政権に抵抗する南ベトナム解放民族戦線と激戦を繰り広げる。68年1月30日には、南ベトナム全土で、解放戦線や北ベトナム軍が猛烈な攻勢に出た(テト攻勢)。これは軍事的には失敗だったが、米国を心理的に揺さぶる。民衆の蜂起を恐れた米軍は必死の反撃に出て、米軍基地の安全を確保するため周辺を徹底的に掃討した。虐殺の現場となったソンミ村もチュライ米軍基地のほど近くにあり、カリー率いる小隊は解放戦線のゲリラを探し出して殲滅するため出動した。しかし、ミライ地区で殺されたのは、子供や女性、僧侶など無抵抗の人たちばかりだった。
テト攻勢が米国に与えた衝撃は大きく、ソンミ事件から半月後の68年3月31日には、ジョンソン大統領がこの年の大統領選への不出馬を表明、北爆の一時停止を発表し和平交渉を呼びかけた。翌年、ソンミ事件が報じられると、米国内では戦争への批判が強まることになる。