昨年7月13日、ノーベル平和賞受賞者で中国民主化運動のシンボル的存在だった劉暁波が死去した。彼は2008年12月に中国の知識人らが共同で発表した民主化アピール『零八憲章』の代表的な起草者で、この件により投獄。非暴力による体制改革を信条としてきた劉暁波の死は、間違いなくひとつの時代の終焉を告げたものだった。
 
 アメリカに亡命中の中国人作家・余傑が著した劉暁波の伝記『劉暁波伝』(劉燕子編 劉燕子 横澤泰夫訳)の日本語版が今年2月9日付けで集広舎から刊行される。習近平体制下で抑圧が強まるなか、中国はどうなるのか。また、劉暁波が目指したものとその限界は何だったのか。『劉暁波伝』の翻訳者で、劉暁波と個人的な交友関係もあった在日中国人作家の劉燕子氏に話を聞いた。

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劉暁波(右)の投獄前年、北京市内で本人に会った劉燕子(中央)氏。ちなみに左は反体制作家の廖亦武で、現在は亡命先のドイツ、ベルリンに滞在している。写真提供:劉燕子

天安門広場内部での虐殺はあったのか?

――昨年12月22日、香港の週刊新聞『香港01』が、機密指定を解除された1989年の天安門事件当時のイギリスの外交文書の内容をスクープして注目されました。当時、中国国務院関係者の情報によれば事件の死者は1万人以上、広場内でも虐殺があったというのです。

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 報じられましたね。

――従来、広場に残っていた学生らの証言から、主要な虐殺は木樨地や西単など西長安街の市街地で発生し、広場内の流血はなかったとされてきました。また犠牲者数も、おおむね数千人とする説が強かったと思います。今回、伝記が出版される劉暁波は天安門事件の際に広場内での流血を回避させた立役者としても知られています。この件について、本人から事情を聞いたことはありましたか。

 劉暁波自身は「自分の目で直接見た範囲では(広場内で)虐殺は目にしなかった」と言っていました。ただ、北京市内において多数の犠牲者が出たことは間違いなく、中国当局が発表した「319人」という数字はあまりにも少なすぎるでしょう。

天安門事件についての新たな機密文書。2017年12月22日付『香港01』のウェブ記事より

――今回のイギリス外交文書の情報ソースは、軍と直接関係ない国務院関係者のようですし、「広場内での虐殺」説の信頼性自体はそこまで高くないような気がしますね。ただ、犠牲者数が1万人以上という話は、ひょっとするとそうなのかもしれません。

 事件については政治面でのブラックボックスとされている部分が多すぎますし、さまざまな立場からの恣意的な主張もあります。ある意味で、南京事件やホロコーストのような歴史的事件と似たところがあって、天安門事件はすでに正確な事実を知ることができない問題になっています。真相が極めて不透明であることが、結果的に中国の当局を利する結果を生んでいるとも思います。

――劉暁波は、33歳の北京師範大学教員の立場で天安門事件に直面しています。当時は客員研究員としてコロンビア大学に出向中でしたが、帰国してデモに加わった立場です。20歳前後の学生リーダーたちとは世代や立場が違うと思いますが、どういう関わり方をしていたんでしょうか。

 知識人として盛んにアピールを出すいっぽうで、学生のハンストにも加わっていました。劉暁波はいつも現場(天安門広場)にいたがったわけです。

 ただ、劉暁波は中国の民主化を求めるにはその方法も民主的でなければならないと主張した立場でした。学生に対しては目標は民主的だが手段やプロセスは非民主的だと指摘し、知識人には言論ばかりで行動しないと批判しています。もちろん中国政府に対しても、旧来の「階級闘争」方式で学生との衝突を激化させたと批判していました。鎮圧の直前に出した声明では、学生側の過激化をたしなめて、非暴力を強く訴えています。