謎の「病死」とその影響
――劉暁波は昨年6月26日ごろに末期がんであることが報じられ、間もなく7月13日に肝臓がんで亡くなりました。中国で次期指導部が決定する10月の党大会を直前に控えたタイミングで、慌ただしく亡くなった印象です。最晩年の劉暁波について、なにか聞いていますか?
劉 劉暁波の妻(劉霞)は1ヶ月に1回、30~40分ほどの面会が認められてきたのですが、独房生活が長期にわたったためか、最晩年はすこし様子がおかしかったと聞いています。2017年4月ごろの面会では、劉霞の話に対して上の空だったと。劉暁波夫婦は仲がよく、面会中も以心伝心でツーカーで話ができるのが常でしたから、劉霞は非常に違和感を持ったそうです。劉霞が劉暁波の末期がんを正式に知らされたのは5月でした。
――肝細胞がんを引き起こすアフラトキシンという薬品が、獄中で継続的に投与されていたという推測も囁かれています。習近平政権は過去の政権と比べて(末端の部下が「忖度」しておこなう行為も含めて)荒っぽい処置が目立ちますから、それが事実でも不思議ではない話です。ちなみに微博(中国版ツイッター)では、劉暁波の死後になぜか「アフラトキシン」という単語が検索できなくなりました。
劉 当局が意図的に毒を盛ったという話は推測の範囲を出ません。劉暁波はヘビースモーカーですから、がんの発症それ自体は自然にあり得たことかもしれません。ただ、もっと早期に治療できたことは確かですし、国内外から出された彼の釈放や情報公開を求めるアピールもすべて当局に無視されました。劉暁波が出所して病院への入院措置が取られたのは6月なかば、亡くなったのが7月13日ですから。当局が未必の故意として見殺しにしたという指摘はできるかもしれません。
――劉暁波は中国の民主化運動にどういう影響を残したと思いますか?
劉 まだわかりません。ただ、2010年に劉暁波に対して「国家政権転覆扇動罪」で懲役11年という判決が確定したあとから、中国の反体制派にふたつの意見が出たのは確かです。ひとつは劉暁波の非暴力の方針であくまでも穏やかに理性的に民主化を進めていく、もうひとつは、中国共産党とは力関係が全く違うので非暴力には限界があるという立場です。そもそも反体制派の絶対的な人数自体が少数派でもありますが……。
――志半ばで斃れた非暴力の抵抗運動の指導者でノーベル平和賞受賞者といえば、ちょうど50年前に暗殺されたキング牧師がいます。キング牧師は晩年、非暴力はもう古いと急進的な姿勢を示しはじめ、過激派のマルコムXの路線にもやや親和性を示していたとか。劉暁波の場合はどうだったのでしょうか。
劉 劉暁波の場合、そういう転換はなかったですね。中国の未来の希望は民間にあると考えて、中国社会の維権運動(権利擁護運動)やNGOの発展に期待していました。中国の知識人の義務として、社会や人々を啓蒙する使命感に燃えていました。
中国知識人の限界はあったか?
――「啓蒙」ですか。しかし、最近は世界的にそうしたエスタブリッシュメントの知識人の姿勢が嫌がられることもあるようです。私個人としては、劉暁波の姿からもそういう匂いを感じなくもないのですが。
劉 「啓蒙」は、語義的に近代の概念を知らない人たちが分かるように教え導くという意味です。劉暁波は文化大革命のときに両親とともに内モンゴルに送られていますし、知識青年として吉林省の農村にいた経験も、長春で労働者になっていた経験もありますから、一般の人の生活もよく知っていましたよ。また、若いころの劉暁波は確かに才能を鼻にかけた部分もあったのですが、天安門事件の挫折や遺族に対する自責の念から、事件後は穏やかで謙虚な人柄に変わっています。
――そうですか。
劉 劉暁波が欧米的な自由主義と民主主義の普遍性を信じていた点について、生前から賛否両論はあったんです。西側式の自由主義と民主主義は中国には合わない、西洋の植民地化やアメリカの他国への軍事介入の肯定につながる、ノーベル平和賞の受賞も政治的な意図によるものだ、といった批判はよくなされました。
ただ、劉暁波は(天安門事件前の)1989年3月時点でも、西洋文明について「現段階においては中国の改造に有用なだけで、未来において人類を救済できないことは分かっている」と述べていますし、単純な西洋礼賛主義者ではなかった。徹底的な自由という点で荘子に高い評価を下してもいます。彼の一貫した立場は「私に敵はいない」で知られる平和主義ですが、これはガンディーに通じるものです。