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ノーベル平和賞・劉暁波は「あざとい」のか「不器用」なのか

伝記『劉暁波伝』翻訳者と白熱対論

2018/01/15
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晩年まで天安門事件で生き残ったことに後ろめたさを抱いていた

――私が2015年の夏に台湾でウアルカイシに会った際には「当時の自分たちは大人の言うことをなんにも聞かなかった」と言っていました。劉暁波は正論を言っていたのかもしれませんが、学生をはじめいろんな人には耳が痛かったはずでしょう。

劉 確かに、学生リーダーの側は劉暁波をややうとましくも感じていたようです。劉暁波がアメリカから帰国して天安門広場に向かった後、(同じ北京師範大学の)ウアルカイシや、封従徳らの学生リーダーに会いに行ったらそっぽを向かれたみたいで。劉暁波が主張した広場からの早期の平和撤退も、急進派だった柴玲たちに反対されています。情熱がほとばしる学生には生ぬるいと感じられたのでしょう。ただ、デモ期間中に劉暁波がウアルカイシと密接に連絡を取り合うようになったことも事実です。

1989年5月、天安門広場では学生たちによるハンスト抗議がおこなわれ、劉暁波もこれに加わった。香港六四記念館『六四紀念棒』より

――現在の元学生リーダーたちは丸くなっていますが、事件後には真っ先に海外に亡命し、現地の政府や民間の寄付でたっぷりお金をもらった人も少なくないため、当時は批判の声もかなり多くありました。

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 1990年代前半、亡命後の学生グループは事件の総括に消極的なところがありました。いっぽう、劉暁波は事件後も中国に残ったことで投獄されて、1991年に出所していますが、その後も自己批判の姿勢を一貫して取っています。晩年まで、天安門事件で自分が生き残ったことに後ろめたさを抱いていました。

 2008年の零八憲章の発表の際に矢面に立つような立場を選んだのも、こうした思いが関係していたのかもしれません。2010年に獄中でノーベル平和賞の受賞を妻から聞かされた際も「これは天安門事件で犠牲になった人たちの魂に贈られたものだ」と答えたそうです。