皆さん、改めまして。文春野球コラム、文春カープ監督のガル憎です。文春野球コラムのペナントレース制が今シーズンで終了、我が文春カープはBクラスが確定したことにより、今回がチームにとって「最後のコラム」ということになります。当初は監督である自分が書こうとしましたが、今年、大病を患いながらも元気に回復された安仁屋宗八さん。その安仁屋さんにどうしても最後のコラムを書いてほしくて、ダメ元でお願いしたところ、なんと快諾をいただきました。ファンとしての「文春野球コラムに安仁屋さんの言葉を残したい」という夢が叶いました。前置きが長くなりましたが、文春カープ最後のコラム。カープ、カープファン、広島の「おじいちゃん」こと安仁屋さんです。どうぞよろしくお願いします。

スカウトの情熱に惹かれて決めたカープ入団

 カープファンの皆さん、こんにちは。安仁屋宗八です。今回は、私がカープに入団してからのこと、病気のこと、現在のカープやファンの皆さんへの思いなどを書かせていただきます。最後まで読んでいただけると幸いです。

 1964年(昭和39年)、私は沖縄出身のプロ野球選手第1号としてカープに入団しました。ただ、当時の沖縄ではプロ野球のテレビ中継がほとんど無かったため、私はプロ野球というものにピンと来ておらず、さらに沖縄を離れることにも大きな不安があったので、正直そこまで入団には乗り気ではありませんでした。しかし、まだ沖縄に来るのにパスポートが必要だった時代に、日系アメリカ人だったスカウトの平山智さんが初代オーナーの松田恒次さんの依頼を受けてわざわざ沖縄まで来られ、熱心にカープ入りを勧めてくださったのです。親父を含む家族、高校の監督は平山さんの熱意と人柄に惹かれ、私には「もしカープに来てくれたらワシがぜんぶ面倒を見る!」と言ってくださり、カープ入団を決意することとなりました。もし平山さんがおられなければ、私はプロ野球選手になってなかったと思います。

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 最初に戸惑ったのは、まず言葉の違いです。いまでこそ野球解説やテレビ出演をさせていただいていますが、そもそも私は人と話すのが苦手で、しかも広島弁は「おどりゃあ!」など荒っぽいものが多く、聞いていて怖かった。普通に話している人たちを見ても、ケンカをしているのかと思ったくらいです。さらに言えば沖縄弁も広島の人にほとんど通じないので、自然と口数も減っていきました。

 あとは食生活ですかね。いまでは随分と変わりましたが、当時の沖縄の食べ物は味付けが濃く、こっちの薄い味付けがどうしても合いませんでした。でも寮や周りの方が本当に私を気にかけてくれて、そういう広島の人たちの優しさや温かさを感じながら、あるとき、ふと「沖縄の人たちと似てるな」と思ったのです。やがて同期入団の仲間たちと流川(編注:広島の歓楽街)に遊びに行くようになり、そこでお酒を覚えて、自然と広島の街も好きになりました。苦労した言葉に関しても、そういう実戦の場で自然と覚えていきましたね(笑)。

現役時代 ©時事通信社

 今年のカープは優勝こそ逃しましたが、クライマックスシリーズ進出を決めました。コーチ経験が無い1年目の新井貴浩監督は本当に頑張ったと思います。選手を怒らず、つねに褒めて前向きに戦うという姿勢もすごくいいと思います。ただ、ひとつ思うのは、藤井彰人ヘッドコーチ、あるいはその他のコーチ。僕はその中に選手に嫌われる人間がいてもいいと思うんです。いわゆる「嫌われ役」が。それは新井監督にも藤井ヘッドコーチにも直接、伝えました。たまにはガツンと言う人がいてもいいんじゃないかと。チームのことをあえて「家族」と呼んで戦い抜くという方針でやってきましたが、家族だからこそ怒るお父さんがいたり、注意するお兄さんがいてもいいですからね。

 順位としては、2位。これは素晴らしい。2位を死守してくれるよう、私も真剣に応援しました。残念ながら最終戦で負け、ベイスターズの順位が確定するのを待つ形にはなりましたが、やっぱり地元で戦えるというのは、試合の流れやたくさんのファンの皆さんの応援などを考えると有利です。なんせ広島にはたくさんのカープファンがいますから。