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朝鮮人についての“デマ”は自然発生的なものだったのか?

 その後は徐々に復興に話題が移るが、1世紀後のいま、関東大震災を振り返る時に流言蜚語の氾濫とそれを流した新聞の在り方、そして朝鮮人への迫害と虐殺(最大6000人という説も)は忘れてはならないだろう。では、なぜそんなことになったのか。朝鮮人の「盲動」についての流言蜚語が自然発生的なものだったのか、警察や軍隊が意図的に流したのか、その2つが入り混じったのか、いまも議論がある。東京や横浜などから他の地域に避難した被災者が流言を広めたことは間違いない。

 千葉県の状況をまとめた『大正大震災の回顧と其の復興 下巻』(1933年)の同県関宿町(現野田市)青年団報にはこんな記述がある。「避難者の到着、通過するに当たり、種々なる風説と流言蜚語とは住民をして極度の敵愾心(てきがいしん)を喚発せしめ、不安、恐怖の念を惹起し、巷説紛々、騒然、平静を欠くに至り……」(原文のまま)

 確かに、未曽有の災害で家や家族を失い、情報が全くないまま、不安と恐怖を抱えた人たちが怒りや恨みを誰かにぶつけたい心情になっていたことは想像できる。そこに「官憲」も絡んだ「不逞鮮人」情報が入ってきたら……。当時の日本社会では朝鮮人に対する差別が存在し、朝鮮独立運動が激化していた。震災の混乱の中で、もしいままでの関係が逆転したら、という恐怖が日本人の間に広がっていたのは確かだろう。

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猛火に包まれる帝国劇場(左)と警視庁(右)(『婦女界』1923年10月号より。モノクロ写真に着色がされたもの)

 7日付下野の1面コラム「その日その日」は書く。「鮮人が火をつけたからこんな大火になったんだと避難者の誰も彼もが言う。だから鮮人は皆殺しにしてしまえと教える」「だが惜しいことには、彼らの1人も社会主義者を捕えようとする者はない。社会主義者は同胞を1人も焼き殺しはしなかったのか」「鮮人狩りに次いで来るべきものは、社会主義者狩りでなくてはならない」。記者の筆による、新聞コラムとは思えない過激で危険な主張だ。