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多くの日本国民を憤激させた“ある事件”との関連

 論文「『下野新聞』の関東大震災報道」は、その理由をシベリア出兵に求めている。宇都宮の第14師団は1918(大正7)年に始まり、震災の前年にようやく終わったシベリア出兵に参加。1920年、ソビエト・パルチザンに兵士、民間人計120人余りが捕虜となり殺された、「尼港(ニコラエフスク)事件」の守備隊も14師団歩兵第2連隊(水戸)の所属だった。「この街の朝鮮人住民もパルチザンに味方した」=麻田雅文『シベリア出兵』(2016年)。この事件は「演歌」や映画、演劇にも取り上げられ、多くの日本国民を憤激させた。

 同論文は「シベリア出兵軍に同行し、現地でのゲリラとの戦闘(の記事)を連日のように送り続け、尼港事件を目の当たりに見た従軍記者」の存在に注目する。コラムの筆者もそうだったのではないかということだろう。7日付下野で14師団参謀長は「今回の不逞鮮人の行動の根幹には社会主義者とロシア過激派との三角関係がある」と述べているが、この人物もシベリア出兵の際、ソ連領内で特務機関長を務めていた。朝鮮人と社会主義者への恨みと憎悪はコラムの記者や参謀長だけのものでなく、日本人社会に広くわだかまっていたのではないか。

14師団参謀長は「鮮人と社会主義者とロシア過激派」の結びつきを主張した(下野新聞)

当局の発表やリークを“垂れ流し”にした新聞の体質

 さらに、虚報がこれだけ紙面に載った原因は、当時の新聞の体質にあった。明治以降の新聞を見ると、当局の発表やリークを“垂れ流し”にする傾向が強いうえ、社会面の記事、特に事件記事は、未確認のうわさを日常的に紙面に載せている。事件記事はその程度の読み物という共通認識があったのだろう。関東大震災も最前線で取材に当たったのは社会部記者。震災報道にも通常の事件報道と同じ手法を持ち込んでしまったのではないか。さらに思うのは、そうした新聞の体質は、そのまま太平洋戦争中の「大本営発表」など、事実と懸け離れた報道につながっていったのではないか。

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 100年後の現在、さすがにうわさを確認しないまま記事にすることはない。しかし、関東大震災と同じような災害が起こった時、日本の社会は、当時と違ってデマやうわさを信じず、平静さを保っていられるのだろうか。政府も国民もメディアも。

【参考文献】
▽伊藤正徳『新聞五十年史』(鱒書房、1943年)
▽『東日七十年史』(東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、1941年)
▽報知新聞社編集局編『今日の新聞』(報知新聞社出版部、1925年)
▽時事新報社編『大正大震災記』(時事新報社、1923年)
▽日本経済新聞社社史編纂室編『日本経済新聞八十年史』(日本経済新聞社、1956年)
▽松山巌『うわさの遠近法』(青土社、1993年)
▽『大正大震災の回顧と其の復興 下巻』(千葉県罹災救護会、1933年)
▽麻田雅文『シベリア出兵 近代日本の忘れられた七年戦争』(中公新書、2016年)