10万人以上の死者を出した関東大震災から9月1日で100年。当時の新聞報道を見ていくと、信じられないような誤報や虚報が大量に紙面に登場していることに驚く。東京の新聞社の多くが壊滅的な被害を受け、情報源が「空白」になる中で、飛び交った膨大な「流言蜚(飛)語」(無責任なうわさ、デマ)をそのまま“垂れ流し”たため、紙面は「フェイクニュース」のオンパレード。それによってさまざまな悲劇が引き起こされた。

 最大の例が各地で起きた朝鮮人虐殺だろう。そこからは、被災者、非被災者を問わず、当時の人々に広がっていた不安や恐怖、憎しみがデマやうわさ、新聞報道によって増幅されたことが感じられる。南海トラフや首都直下型の地震の可能性も取り沙汰されるが、関東大震災の報道と受け手の問題は100年前の過去の記憶とは片づけられないリアリティーを持っている。

 文中、現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場する。文語体の記事などは、見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する=特別の表記がない限り、日付は1923(大正12)年9月。(全2回の2回目/前編から続く

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報知新聞が復刊した9月5日付には、3万人以上が焼死したとされる本所被服廠の遺体写真が載った

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 被害が軽微、もしくは被災地から離れた地域の新聞は、発生直後から連絡が途絶している東京に記者を送り込もうとした。新聞が本拠を置いている都市から、東京に近い出先から、出張中の場所から。逆に、東京駐在の記者は被災地から脱出してルポを寄せた。

 群馬県の上毛新聞は3日付紙面に「東京全滅と我が社」という社告を出し、社会部長と写真班を東京に特派したと発表した。内田修道「『下野新聞』の関東大震災報道」=「京浜歴科研年報」第19号(2007年)所収=によれば、栃木県の下野新聞は2日以降、記者とカメラマンを東京に派遣。4日付以降の紙面に東京から送られてきた記事を掲載した。

山陽新報の記者は岡山から東京に入って被災状況をルポした

 岡山県の山陽新報は、記者が沼津付近の被災状況視察のため1日に岡山を出発。静岡まで来たところで予定を変更して船で東京に向かい、5日に芝浦に上陸した。被災地を歩き回ったルポ「岡山を發(発)して壊滅の帝都に入る」を写真付きで9日付朝刊から10回連載。福岡日日も10日付で「特派員」の「廢(廃)滅の都に入る」というルポを「東京電話」で載せた。静岡民友は3日朝、「特発飛行機」を静岡市から飛び立たせ、一時消息不明になったものの同日午後、帰着。4日付に「萬(万)死に一生を得て我社特發機還る」との見聞記を大きく載せた。