「社長~!」「安くして~!」など夢グループ社長に合いの手をかけるCMで突如ブレイクした歌手の保科有里さん。今ではCM活動やコンサート、テレビ出演などで全国を忙しく駆け回る彼女だが、若かりし頃はヒット曲にも恵まれず、田舎に帰ることを考えていたことも……。

 彼女が夢グループに所属してブレイクできた理由を初の自伝『愛人!? 困っちゃう・・・』(山中企画)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

歌手・保科有里さんと「夢グループ」石田社長との出会いのきっかけとは?(画像:「夢グループ」提供)

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ちっともドラマチックじゃなかった社長と私の出会い

 やっぱり、最初に私と石田社長との「関係」についてお話しなくてはいけませんね。CMのせいでしょうか、私と社長が「愛人関係」と思ってらっしゃる方だけじゃなくて、「夫婦」とか、漫才やコントの「コンビ」だと誤解してらっしゃる方もいるみたい。

夢グループの石田重廣社長 ©文藝春秋

 違うんですよ。いえ、「コンビ」って言われたら、ちょっとそういうところはあるかもしれませんけど。

 私がデビューしたのは1993年。でも、なかなか売れませんでした。デビュー10年経ってシングルCDも5枚、出していたんですが、ヒットに結びつかない。もうこのまま東京にいても仕方ないから、故郷の金沢に帰ってしまおうか、と考えていた時期が続きました。

 今はなくなっているんですが、1997年頃から、品川駅前にあったホテルパシフィックの30階のラウンジで、月に1度歌っていました。一晩で45分が3回。

 100人くらい入る会場はほぼ満席。でも照明は暗くしているので、お客様の顔はよくわかりません。歌ったのはカーペンターズやジャズなど外国の歌やポップス、日本の曲なら、山口百恵さんやテレサ・テンさんの歌とか。あくまでお酒を飲むのがメインなので、それを邪魔しないように、しっとりとしたムーディーな雰囲気を作るのが役目でした。

 その日、実は前もって、レコーディングで何度もお世話になった塩入さんというレコードディレクターの方に、「キミを所属にさせてくれるかもしれない会社の社長を呼んである」と聞かされていました。

 でも「どうせダメだろうな」とあんまり期待してませんでした。以前にも所属していた事務所はいくつかあったんですが、どうしてもヒット曲がないとなかなか続かないんですよね。その時はフリーで、事務所探しもうまくいっていませんでしたので、塩入さんにお願いをしていました。

 エンディングで歌いながら会場を回って、後方にいた石田社長にも挨拶にうかがったんです。第一印象は「体の大きい人だな」くらい。暗くて顔もよく見えなかったし。