武器を持った複数の男たちに“大切な友人”が連れ去られた
「ムハンマド医師が何者かに連れ去られた!」
空爆があったあの日の翌朝、「この病院は本当に必要とされているよ」と僕を勇気づけてくれた、あの若き外科医のムハンマドだ。
連れ去られたその日、彼はトルコとの国境沿いの病院で夜勤をしていた。病院近くの宿舎で他の同僚と仮眠をとっていたところ、武器を持った複数の男たちが押し入ってきて、彼だけが連れ去られたのだ。
イヤな予感がした。
じつは数か月ほど前、現地のイマーム(宗教指導者)から、イスラム教の宗教的な勧告である「ファトワー」が彼に出ていたのだ。しかも“死刑〞のファトワーだった。
彼はいわゆる世俗派で、自分の生まれ育ったアレッポがだんだんとイスラム原理主義の勢力に侵食されていくのをよしとしなかった。その彼がフェイスブックなどのSNSで原理主義者の批判をしていたため、制裁を加えるということだった。
警戒した僕は、ファトワー撤回の交渉を行うよう現地スタッフに指示。その間、ムハンマド医師をトルコのプロジェクトに異動させた。
交渉はうまくいき、ファトワーは撤回された。一件落着のように思えた。
だが正直、彼との雇用契約は終了してトルコで他の仕事を見つけてもらうしかないと僕は考えていた。それが彼と、プロジェクト全体の安全のためには一番いいと思っていた。
最悪の結果をもたらした“誤った決断”
ところが現場のチームから「お願いだから彼をクビにしないでほしい」との強い訴えがきたこともあり、処遇をどうすべきかためらってしまった。
ここで、僕は大きな間違いをおかした。
迷ったのだが、もう二度とSNSで以前のようなコメントはしないという約束をさせた上で、彼をアレッポの病院に戻してしまったのだ。
情に流されて、僕のリーダーとしての弱さが出た。
しかも、そんな大事なことを統括部門の上司に相談していなかった。そのときの僕はあろうことか、自分の契約期間の終了までに2つ目の病院をオープンすべく調整に躍起になっていたのだ。
2013年の半ば、アレッポ県の勢力図が水面下で少しずつ変わっていたころだった。そんなときに、現地の状況の変化に対するシナリオを読めず、スタッフの安全を守るための対応を誤ってしまった。
連れ去られてわずか数日後に、彼は遺体となって発見された。
捜索に出ていたスタッフが、道端で彼の遺体を見つけた。写真を見たが、顔の見分けもつかないほど、暴行のあとが残っていた。
犯行声明は出ておらず、解放のために交渉する機会さえなかった。現地の多くの人たちは、ISILの仕業だと信じた。