しかし、この公演中に昭和の芸能史に残る大事件を起こす。千秋楽を前に、高橋は突然失踪。関係者や家族もまったく連絡が取れず、「誘拐ではないか」と、捜索願まで出されたが、実際は河村氏とともに日本を脱出し、タイやトルコ、マレーシアを転々としていたという。
「4カ月弱に及ぶ逃避行の末、2人が帰国した時は、大阪・伊丹空港には報道陣が殺到。タラップに姿を現した彼女は、長かった髪をバッサリ切って、ショートヘアになっていた。押し合いへし合いで大混乱の報道陣に向かって、『逃げたりしませんので!』と叫ぶ彼女は、実に堂々としたものでした」(同前)
結婚を機に芸名を「高橋惠子」に変更
その後も、高橋は河村氏とともに飛騨高山で生活を続けたが、激しく燃え上がりすぎた恋は、その後まもなく終焉を迎える。
「逃避行の理由について、高橋は明言を避けていましたが、関係者の間では察しがついていた。なんでも舞台で共演中の俳優に彼女が口説かれているのではないかと嫉妬した河村氏が、彼女を連れだしたというのが本当のところだそうです。のちに高橋は、当時のことについて、『あの時は死ぬつもりだった』と語っています。また、『あれは恋愛ではなく、師匠と弟子のような関係だった。自分以外は全員敵のように見えていた環境で、この人なら私を導いてくれると思った』と振り返っていました」(同前)
破局と同時に芸能界に復帰。82年には、ヌード写真集を出版し、大きな話題を呼ぶ。さらに同年には、映画『TATTOO〈刺青〉あり』でヒロインを演じ、本作のメガホンをとった高橋伴明監督とゴールインを果たす。同時に、それまでの自分と決別するかのように、芸名を「高橋惠子」に変えた。
「高橋が街を歩いていたら、同じ年ごろの女性が『脱ぐ女優よ』とひそひそ話しているのが聞こえたことがあったそうで……。『私は脱ぐだけの女優じゃない!』と忸怩(じくじ)たる思いはあったものの、役柄やプライベートでの奔放なイメージが定着してしまっていたのは事実。新たな自分になって出直すために改名を決意した。新婚旅行で訪れたバリ島の海を見ながら、“関根恵子は死んだ”と感じたのだとか」(女性誌記者)
結婚40周年を迎えた今も高橋監督とはおしどり夫婦
帝国ホテルで盛大に行われた結婚披露宴では、吹っ切れた様子を見せる場面もあったという。
「披露宴のスライドショーでは、飛騨高山での生活や国外逃亡、飛行機のタラップを降りてくる瞬間の写真まで映し出され、出席者は驚愕。しかし、当の高橋本人は、他人事かのように穏やかな表情でそれを見つめていたそうで……」(前出・芸能関係者)