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将棋が長引いて命を救われたことも?

 1960年代から70年代にかけ、ピンク映画の脚本で財を成した団鬼六は1987年、横浜に「鬼六御殿」と呼ばれた5億円の豪邸を建てた。しかし、その後の断筆宣言とバブルの崩壊、赤字だった『将棋ジャーナル』の刊行を引き受けたことで、今度は借金苦に陥ってしまう。そんな鬼六のジェットコースターのような人生を助けたのが、将棋と将棋界に生きる人々だった。

文壇パーティーでの団鬼六氏(左)。右が小池重明氏 ©弦巻勝

「団先生はかつて、新橋にバーを開いていた時代がありました。1959年、来店していた人気俳優の高橋貞二が『これから横浜に飲みに行こう』と先生を誘ったのですが、そのとき将棋を指していた先生の勝負が長引き、高橋貞二は先に車で横浜へ向かった。そしてその車は事故を起こし、彼は亡くなってしまった。団先生が“将棋に助けられた”というのは本当の話です」

 90年代以降、団鬼六と親交を深めた弦巻氏は、鬼六の作品のなかにしばしば登場するようになる。将棋の観戦記では「弦巻あたりには決して指すことのできない会心の一手」などと面白おかしく書かれることもあったが、これも深い信頼関係の裏返しである。

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団氏(左)と将棋盤を挟むカメラマンの弦巻さん。見守る田中寅彦九段も笑顔

「団先生はもともと教師で、純文学作家を目指していました。しかし純文学では売れず、忸怩たる思いで転向したSMの世界で商業的成功をおさめた。人生経験を通じ、人間の苦しみの本質をよく知っている先生は、弱い立場の人間に対する慈愛は果てしなかったですね」

 生涯を通じ、自らの人生哲学であった「一期は夢よ、ただ狂え」を体現した団鬼六は2011年、80歳で世を去った。無私の愛情を将棋に捧げた作家だった。