文春オンライン

それでもわれわれが「右でも左でもない」を目指すべき理由

両極に振れやすい時代だからこそのポジショニング

2018/03/26
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結論ありきの「右のパッケージ」と「左のパッケージ」

 結論ありきで軍歌も君が代も教育勅語も肯定してしまえば、森友学園のような似非愛国教育――「愛国コスプレ」であり「戦前の二次創作」――となんら変わらない。

 また、なんでもかんでも「反アベ」で、リベラルっぽい単語――マイノリティー、人権、護憲――を適当に配列するだけでは、「森友学園」の左翼バージョンとの批判をまぬかれないだろう。

 念のため付け加えるが、わたしはここで悪しき相対主義を掲げたいのではない。そうではなく、君が代を国歌として受け入れるが、そのいっぽうで、安倍政権のメディア対策を大本営発表の歴史から批判的に検証するといった、是々非々の立場が必要だといっているのだ。

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©getty

 だが、特定の党派に与すると、このような態度は取りにくくなり、やがて「右のパッケージ」や「左のパッケージ」の丸呑みに追い込まれてしまう。それは自由な書き手としては死に等しい。

 だからこそ、短期的な利益を捨ててでも、独自路線の旗を高く掲げなければならないのである。

独自路線に希望はあるか

 このことは、なにも政治的な左右対立のみに限らない。

 自由に見えるマニアックな趣味の世界であっても、しばしば縄張りやムラ社会的な掟があって、党派に近い縛りがあったりする。これはタコツボ化している学術の分野にもあるいはあてはまるかもしれない。

 さまざまな分断の隘路に陥らず、書き手として自由にやっていくためには、どうすればよいだろうか。それは、あらゆる点でバランスを図り、やはり「赤旗」からも「聖教新聞」からも声がかかるように、独自路線を追求する以外にない(もちろん比喩的な意味だ)。

 そうすることで、さまざまな弊害――凡庸な戦前批判または戦前美化を繰り返すことや、ポリティカル・コレクトネスなど大義名分を振り回すこと、また学術用語をちりばめて政治運動をことごとく衒学的に冷笑することなど――から逃れられるようになるのである。

©getty

 しかし、そんな独自路線を突っ走って、希望はあるのだろうか。現在は分断に基づく動員の時代であって、独自路線こそ滅びの道ではないのか。いや、ここにこそ希望はあるのだとわたしは考えたい。