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それでもわれわれが「右でも左でもない」を目指すべき理由

両極に振れやすい時代だからこそのポジショニング

2018/03/26
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具体的に両極端を意識すること

 以前、とある講演会の二次会で、主催者にこう打ち明けられたことがある。「こういう場に典型的な論者を呼んでも、『こういえば君ら喜ぶんだろう?』と見え見えのことしかいわない。これは正直退屈だし、もっとほかの話が聴きたい」と。

 その主催者はたまたま拙著を読み、わたしを呼んでくれたという。似た経験はほかにもある。読み手もじつのところ、是々非々の立場を求めているのではないだろうか。ウェブ上では、記号化された、極端な意見ばかり目立つが、地道に情報発信すれば、届くところには届くのだ。

©iStock

「右でも左でもない」は本当に空疎なのか?

 たしかに「右でも左でもない」は空疎に響く。その傾向は強まるばかりである。だが、両極化しやすい世界に流されず、バランスよく自由にやっていくためには、これ以外の選択肢はない。

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 ひとりの書き手として、わたしは「赤旗から聖教新聞まで」の比喩を紹介し、そうした構えこそが自由を担保すると述べた。おそらく業界や職業ごとに同様のものが成り立つのではないだろうか。

 そのような具体例を意識すれば、「右でも左でもない」ということばも、かならずしも空疎に響かないはずである。

それでもわれわれが「右でも左でもない」を目指すべき理由

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