なぜ両睨みでやらなければならないのか
すでに述べたように、現在は左右対立の激しい時代である。そのため、いったん「右」とのイメージがつけば、容易にぬぐいがたい。
「右」認定された書き手は、「右」からは熱烈に支持されるいっぽうで、「左」からは攻撃の対象になり、もはやまともに読んでもらえなくなる。
あとから「いやじつはもっと中立的なんだ」といっても、敵の「左」からは「いまさらこっちに来るな」と突き放され、仲間の「右」からは「裏切り者」と切り捨てられ、進退きわまってしまう。
したがってその書き手は、もはや「右」の読者にむけて、いかに心地よく、刺激的なことをいうかの「忠誠心競争」に乗り出さざるをえない。
同じような境遇の書き手が集まれば、言動はますます先鋭的になっていく。それはもはや単なる動員合戦であり、デマ、ヘイト、名誉毀損などの温床にもなるわけである。ウェブ上にはそうした事例がたくさん発見できる。
以上の「右」と「左」は、いうまでもなく入れ替えられる。
このように、特定の立場からしか声がかからない状態になることには大きなリスクが伴う。それはなにより自由の喪失だ。書き手として、風見鶏の誹りをおそれず、両睨みでやらなければならないゆえんである。
党派に与するのは死に等しい
わたしはこれまで、軍歌、君が代、プロパガンダ、大本営発表、教育勅語、検閲などをテーマに著作を発表してきた。
興味関心にもとづいてテーマを決めているのだが、幸か不幸か、近年社会問題になりがちなものばかりなので、以上のようなイデオロギー対立に巻き込まれることも少なくない。
なるほど、この知識を使えば、今日的な動員はしやすいだろうと思うこともある。
いわゆる「右」方面でいえば、軍歌や君が代や教育勅語をもっともらしく肯定してみることもできるし、また反対に「左」方面でいえば、戦前の事例をつぎつぎに持ち出して、安倍政権の一挙手一投足を批判してみることもできる。
短期的な利益を狙うのであれば、こうしたやり方をしたほうがいいのかもしれない。だが、そこで立ち止まって考えざるをえない。
それが本当にやりたいことなのか。意義あることなのか。それはたんに誰にでも代替可能なボットに落ちぶれることではないのか――と。