とまあ、大略以上のような京大観を、あるいは同志社観も、おしえられている。京大への進学が家からの脱出経路となっていることは、親たちの側からもたしかめられた。
寛永から、永禄からなどという店のいわれに、多くの人は歴史のロマンを感じよう。応仁の乱より前からという店さえ、京都にはある。その継続力には脱帽するむきも、すくなくあるまい。
しかし、店をつがされる側には、それなりの覚悟もいる。とにかく、古くからのうんざりするようなしきたりが、こういう家にはある。親戚筋も、何かと口うるさい。新しいいとなみにふみだせば、いろいろ難くせをつけてくる。
そして、こういう家の御当主たちは、みなそれらをひきうけている。圧倒的な慣例のなかで、すこしは自分の我もだしつつ、店を次の世代へつたえていく。苦労の多いそんな営みを、かさねてきた。京大あたりへ脱走する人びとをのぞいては。まあ、出口は京大以外のところにもあるのだが。
京大をでて研究者になった男から、こう言われたこともある。
正月に家へかえったら、いろいろ言われるで。お兄ちゃんは気楽でええな。俺がどんだけしんどい思いをしてるか、わかるか。たいへんやで、と。
もちろん、その苦労がわかるから、くだんの男はべつの人生をえらんでいるのだけれども。
さて、私は右京区で生まれそだった。洛中の伝統とは縁のないところで、大きくなっている。
こういう私とであった時、洛中の名家を生きる旦那たちは思うだろう。あなたは、伝統やしきたりにとらわれないところの人だから、いいね、と。そして、おそらくそんな想いが、洛外者にたいするいけず口になる。私などを、ちくちくさすような皮肉が、口からでてしまうのではないか。
もとより、論証ができるような話ではない。私の勝手な臆断である。だが、私は洛中の御名門からいけずを言われるたびに、この想像をはたらかす。彼らは、気の毒な人たちなんだ。そう自分に言いきかせることが、私の精神衛生をたもつ便法になっている。
井上章一(いのうえしょういち)
1955年京都市生まれ。京都大学工学部建築学科卒業、同大学院工学研究科建築学専攻修士課程修了。現在、国際日本文化研究センター教授。専門は風俗史。著書に『美人論』『パンツが見える。』『関西人の正体』『京女の嘘』ほか多数。