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――叔母様はお仕事をされていたのでしょうか。

松村 専業主婦でしたが、叔母の家庭も娘が生まれて間もない頃だったので、当時は厳しかったと思います。僕が仕事で家を空けていることが多いので、叔母が娘を連れて祖母の食事の支度をして、ご主人も、仕事が終わったら祖母と僕が住んでいる家に食事をしに来て。

 で、そのあと、叔母だけが残って僕が帰ってくるまで待っていてくれるという生活が、叔母たちと同居するまで続いたので。

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松村雄基さんは18歳の頃から20年間、祖母の介護を経験した(写真=松村雄基さん提供)

認知症で別人のよう…それでも他人に任せることへの葛藤があった

――そのような在宅での介護は、何年続きましたか。

松村 18歳から28歳くらいまでだったので、10年間ですね。そのあと祖母が特別養護施設に入ってまた10年。だから、祖母が倒れてから合計20年間くらいは、家族みんなでお世話ができたかなと。

――おばあさまを特別養護施設(以下、特養)に入所させることに、葛藤はありましたか。

松村 ありました。散々お世話になった人を、「自分のうちじゃ面倒見切れないから」と他人に任せるというのは……当時の僕の中で「姥捨山に捨てに行く人と同じじゃないか」と思う部分があったので。

 でも在宅で介護をする中で、祖母とのぶつかり合いが大きくなっていたのは事実なんですよ。僕の知ってる、礼儀正しくてきちっとしていた祖母とはまるで別人が目の前にいるわけです。

――どのようなところが、別人のようになられたのですか。

松村 例えば「塩飴が欲しい」と言うので一袋置いておくと、あっという間に全部食べてしまうんです。それで「もっとちょうだい」と大きな声で叫んで。あれだけ「恥」ということに関して敏感で厳しかった人が、恥も外聞もなく。そういう姿を見ると、もうショックでしょうがないですよね。

 そんなこともあって、あんまり優しく接することができなくなっていたんです、僕も叔母も、そして祖母本人も。お互いに身内だから余計に相手に甘えてしまうというのもあるんでしょうね。みんな気持ちがささくれ立っちゃうのはなんとかしたいなと思っていました。

 

――仕事と介護を両立するのは大変でしょうし、心の余裕もなくなってしまいますよね。

松村 そうですね。でも「じゃあどうやって解決したらいいんだろう」と考えると難しくって。「優しくなればいい」と言われても、僕は僕で仕事で疲れていて、祖母は祖母で思うことを言っているだけであって、悪気があるわけでもないし。そんな中で、色々な人から「こういう方法もあるよ」とアドバイスをいただいて、最終的には特養という道を選んだんですけど。

 本当にものすごく葛藤がありました。できれば自宅で、と思いますもんね。