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――ご家族を施設に入所させることに抵抗感や罪悪感を抱える人も多いと思いますが、松村さんはその決断をして、良かったと思いますか。

松村 僕は良かったと思っています。プロにサポートをしてもらうことで、僕たち家族が祖母に対して優しくなれましたし、祖母も以前より優しい顔になりました。

 だから悩んでいる人には、多くの選択肢の中から「絶対に施設に預けたくない」という風には弾かないでほしいなと思います。プロの手を借りることが、お互いにとってプラスに働くこともあると思うので。

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寂しさ以上に安堵「これであの苦しみや辛さのない世界に行けたんだな」

――おばあさまが特養に入られてからは、どのようなケアをされていましたか。

松村 僕は仕事がなければ週に3回か4回は会いに行っていて、叔母はほぼ毎日行ってました。

 祖母が亡くなったのは彼女が88歳のときで、当時、僕は仕事で九州にいたんです。夜、ホテルに帰ったらマネージャーから留守電が残っていて「何時でもいいから連絡ください」と。それを聞いてなんとなくわかったんですね。特に予兆はありませんでしたけど、すでに特養で10年過ごしていましたから。

 本当は2泊する予定だったのですが、祖母が亡くなったと聞いた翌日、朝一番の飛行機で帰りました。

――ご遺体に会うことはできましたか。

松村 はい、その日は1日一緒にいて、でもその翌日は舞台の本番があって、火葬には立ち会えませんでした。だから一緒にいる間に、生前いつもそうしていたみたいに、祖母の亡骸に向かって舞台のセリフを言って、「じゃあこれから行ってくるね」と伝えて別れました。

 で、舞台から帰ったらもう荼毘に付されていたんです。そんな状況だったから、あんまり悲しんでいる間もなくて。遺体と会った時には、まるで寝ているようだったし、慌ただしく葬儀をやって。

 故人を悼む暇もなくいろんな手続きがあって、弔問のお客さんがいらして酒盛りしながらみんなで祖母の思い出話をして。葬儀というのは、残された人たちが激しい悲しみに暮れないようにあるんだろうなと思いましたね。

 

――おばあさまが亡くなられたときのお気持ちは、どのようなものでしたか。

松村 心のどこかで寂しさはありましたが、でも、一番は安堵でした。「これでもう、祖母が苦しむことはないんだな」と。それまでにもしょっちゅう痰を喉に詰まらせて、顔が紫色になるようなことがあったんですね。病院で「もう死んでしまうかもしれない」と思うほど息が詰まってしまう姿を目の前で見てきたこともあって。

 だから仕事で地方にいる間も、いつも「とにかく祖母が苦しむのだけは避けたい」ということばかり考えていました。でも亡くなったことによって「これであの苦しみや辛さのない世界に行けたんだな」という安堵で、ほっとした気持ちがありました。