球春到来。「文春野球」のファイターズコラム担当、えのきどいちろうです。開幕カードは2年連続、埼玉西武戦ですね。ライオンズ担当、中川充四郎さん、今年もよろしくお願いします。しびれる試合になるといいですね。
開幕を1週間後に控えた週末、神奈川県郊外の私鉄駅改札で女性と待ち合わせしたのだ。初対面だったが、初めて会った気がしない。昔、『週刊ベースボール』誌に連載していた頃、ファンレターをいただいて、あまりの内容に感動して返信し、以来、たぶん20年近い期間、文通状態になっている。東京時代からの生粋のファイターズ党だ。お名前は仕事の関係もあって匿名を希望されているので、便宜上、「コユキ」さんとお呼びする。彼女のいちばん思い入れがあるという田中幸雄のニックネームにちなんだ。
※今はおおむね「ユキオさん」で通る前2軍監督、野球解説者の田中幸雄氏は東京時代、(184センチ、91キロの大男なのに)「コユキ」と呼ばれていた。実はファイターズには同姓同名の田中幸雄投手(190センチ、90キロ。1981年ドラフト1位)が既に所属していたからだ。もちろんこちらは「オオユキ」である。
コユキさんから届く手紙は毎回、衝撃的だった。必ず昔の新聞記事コピーが同封されている。それも大記録達成のような派手な記事だけでなく、小さなベタ記事もある。今はビデオや動画が豊富にあって、もちろんそういうものが「当時に引き戻してくれる力」はすごいのだが、新聞記事もまた強力だ。僕はコユキさんがコピーして送ってくれた一段7センチくらいのベタ記事(石本努のものだったと思う)を覚えていた。むせかえるようななつかしさだった。コユキさんは僕の知るかぎり本邦トップ級の「日ハム記事スクラップ」コレクターなのだ。
※現在はファイターズでスコアラーを担当されている石本努氏だが、90年代の一時期、ファイターズには「背番号37番の石本努」と「背番号38番の岩本勉」が揃っていた。最初が「岩石」のどっちかというだけで「いしもとつとむ」「いわもとつとむ」、「い」で始まって、音的にも1字しか違わない。まぎらわしいのを好む球団カラーなのか?
高1の春、軽い気持ちで始めたスクラップ
コユキさんが日ハム記事のスクラップを始めたのは1982年のことだった。当時、彼女は高校1年生だ。前年、1981年は大沢啓二親分のファイターズがパ・リーグ優勝を飾り、巨人と「後楽園シリーズ」と呼ばれた、同一球場での日本シリーズを闘った年だった。ファイターズには江夏豊がいた。高橋一三、木田勇がいた。ソレイタ、柏原純一がいた。コユキさんは名遊撃手、高代延博(現・阪神コーチ)のファンだった。コユキさんの個人史のなかでは「中3で優勝」だ。天真爛漫だ。
「高1の春、あぁ、今年も優勝しちゃうんだろうなと思ったんです。あ、だったら優勝までの新聞記事が全部取ってあったら楽しいかも〜、と軽い気持ちでスクラップを始めたんです。当時は日ハムの記事はスポーツ新聞でも本当にちっちゃくて、スクラップするのも簡単でした」
それが優勝まで25年続けられることになった。1981年のパ・リーグ優勝の次は2006年、新庄劇場の日本一だ。軽い気持ちで始めて四半世紀だ。15歳の女子高生は妙齢の女性になっていた。もう、引っ込みがつかないというか、やめるにやめられなくなっていたらしい。「次の優勝」までのプロセスを新聞スクラップの形で残す業。天真爛漫な女子高生の思いつきは、いつしか「悲願」と呼べるまでに分厚くなっていた。
「プレーオフでヒチョリがホームへ駈け込んだ瞬間、号泣です。あのときは涙が止まりませんでした。1か月くらい思い出しては泣いてました。長かった。報われた。私はこの日のためにこれを続けてきたんだ。今も思い出すと嬉しくて泣きそうです」
僕も81年優勝は大学4年生で、自分が社会に船出するのを祝ってくれているのかぐらいに思い上がっていたなぁ。これから毎年のように優勝するんだと決めてかかっていた。それが「次の優勝」は40代半ばだ。もう社会に出て色んな目に遭っている。コユキさんとは戦友っぽい感じがするのだ。強いときも弱いときも、いつも熱くなって応援してきた。球団の北海道移転にも耐えた。北広島移転なんて問題にならない。