蔦重はチャンスをしっかりつかみ取った。
安永九年(1780)、30歳になった蔦重は一気に8作もの黄表紙を発刊、翌年も7作を世に出している。諸作の評判は上々、それもそのはず恋町と喜三二の二枚看板をしっかりと抱え込んでいた。蔦重の人材スカウトの手腕は確かなものだ。細見に次ぐ黄表紙の成功で、出版人としての蔦重のステイタスも大きくステップアップした。
天明(1781~)に入って狂歌が大ブームを巻き起こす。
狂歌は和歌の体裁を借りた思いっきりカジュアルな詩歌、五七五七七に世事や風俗から下ネタでも詠みこんでいく。その敷居の低さが幸いし、武家から妓楼の主人、庶民まで江戸の皆がこぞって狂歌を捻り出しては悦に入る時代になった。
戯作者や浮世絵師たちも例外ではない。というより、名だたる面々はこぞって狂歌にハマっていた。黄表紙と狂歌の大流行は別個のものではなく、ぴったりと重なっていたわけだ。
蔦重にとって狂歌に夢中の戯作者と絵師は喉から手がでる人材にほかならない。
江戸のクリエイターたちを一網打尽にすくいとる妙案はないか? 蔦重は頭を捻った。
「そうだ、狂歌にかこつけて先生方に集まっていただき、大いに愉しんでもらいましょう」
さっそく蔦重は狂歌サロンをつくり、しっかり裏で牛耳った。しかし、狂歌サロンに集った連中に不満はない。何しろ、蔦重主催の乱痴気騒ぎの酒宴がそのまま企画ミーティングに早変わりするのだから。
「先生、次はこんなのを出してみませんか?」、蔦重は酒を注ぎながらプレゼンする。
戯作者や絵師たちはうなずく。蔦屋からは続々と彼らの傑作、話題作が出版された――。
「蔦重には風流も文才もないけれど世渡りの知恵は…」という不思議な評価
狂歌にわき、黄表紙の開板が相次ぐ天明3年(1783)、33歳の蔦重は吉原から日本橋通油町へと進出している。日本橋はお江戸の中心街、名だたる有名本屋が集まっていた。間借り店舗でのスタートから10年あまり、とうとう耕書堂は一流版元の仲間入りを果たした。
蔦重はまことに如才がない。
彼の姿は何冊かの黄表紙に描かれていて、どれも豊頬に穏やかそうな笑みを浮かべている。しかし、どのシーンでもしっかり原稿を催促しているのだから油断がならない。
曲亭馬琴は若き日に蔦重の店で働いていた。その彼が主人をこう評している。
「蔦重には風流も文才もないけれど、世渡りの知恵はすぐれていて時代を代表する才子に愛されていた」
蔦重の行動を追うと気前ばかりか気風(きっぷ)もいいことがわかる。才能、将来性を見極める眼力もたいしたもの。見込んだ人物には躊躇なく力を注ぐ。開板に際しては一気呵成に攻勢をかけた。
何より蔦屋は飛ぶ鳥を落とす勢いの出版社、ここから出せば一流の証のうえヒットした。